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ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件(ノサ・セニョーラ・ダ・グラサごうじけん)は、江戸時代初期の1608年から1610年に起きた、ポルトガル貿易船の爆沈事件。マードレ・デ・デウス号 (Madre de Deus) 事件とも呼ばれるが、ポルトガルの原史料における船名は「ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号 (Nossa Senhora da Graça)」である。 == 事件の発端と戦闘までの経緯 == 事件の発端は、慶長13年(1608年)11月に肥前島原藩主の有馬晴信が占城(チャンパ)に派遣した朱印船がマカオに寄港滞留中に、船員が取引をめぐって騒擾事件を起こし、それを当時マカオのカピタン・モール(Capitão Mor、総司令官)であったアンドレ・ペソア(Andre Pessoa)が鎮圧し、このために日本人側に多数の死者が出たことであった。 翌14年(1609年)5月に日本航海司令官としてペソアが長崎に来着した。ペソアは長崎奉行の長谷川左兵衛藤広に対し、前年の事件に関する調書を提出し自身が駿府に赴いて徳川家康に陳弁する申し出をした。藤広はこの件がポルトガル船貿易の途絶につながることを危惧し、マカオでの事件の真相は伏せてペソアの書記のマテオ・レイタン(Mateo Leitão)を代理人として駿府に遣わせるよう説得した。しかし、使者の出発後に家康による商品の先買権行使に不満を抱いたポルトガル商人たちが取引関係の改善と長崎奉行の非を訴えるためペソアが直接駿府に赴くことを決議。これはイエズス会士の勧告により実現しなかったが、このことで藤広とペソアの関係は悪化した。また、藤広は従来の慣行を破って取引方法を変更したり、持ち込んだ品を一方的に購入したりしたため、貿易を阻害されたポルトガル商人の反感を買っていた。そのため、ペソアは使者に自由貿易の保証を得ることも命じていたが失敗。オランダ人の日本貿易参加阻止もかなわず、日本船のマカオ寄港を禁じる同年7月25日付の朱印状を家康から下付されたにとどまった。 藤広は、前年の事件に対する報復を考えていた晴信を教唆し、ペソア捕縛と商船捕獲とを家康に請願させた。晴信に伽羅木購入を委託していた家康は、当初は報復行為によってポルトガル貿易が断絶することを懸念していたが、マニラ船のスペイン商人がポルトガル船積載生糸などを補完することを保証し、またオランダ船の継続的な来航も期待できるようになったため、晴信に許可を出した。 駿府から召喚の命が伝えられたが、生命の危険を感じたペソアは要請を拒否して船にこもり、積荷を載せたまま出港の準備を始めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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