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ノルベルト・ウィーナー : ミニ英和和英辞書
ノルベルト・ウィーナー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ノルベルト・ウィーナー ( リダイレクト:ノーバート・ウィーナー ) : ウィキペディア日本語版
ノーバート・ウィーナー[ちょうおん]

ノーバート・ウィーナーNorbert Wiener, 1894年11月26日 - 1964年3月18日)はアメリカ合衆国数学者ミズーリ州コロンビア生まれ。サイバネティックスの創設者として知られている。
父親はイディッシュ語研究などで知られるビャウィストク出身のポーランド系ユダヤ人言語学レオ・ウィーナー(ヴィーネル、 Leo Wiener)。
== 生涯 ==
1894年アメリカ合衆国ミズーリ州コロンビアに、父レオ(''Leo'')とユダヤ人の母バーサ・カーン(''Bertha Kahn'')の長子として生まれる。
レオはハーバード大学スラブ語の講師をしつつ、ノーバートに7歳まで彼自身の手で、実験的で厳しい英才教育を授けた。父親の指導と彼自身の才能により、ウィーナーは神童に育つ。1903年アイヤー・ハイスクールに入学、1906年に卒業した。
1906年9月に、11歳でタフツ・カレッジに入学、1909年、14歳のときに数学で学位を取得し、ハーバード大学の大学院に入学した。ハーバード大学では動物学を専攻したが、1910年コーネル大学大学院に移籍し、哲学を専攻した。翌年再びハーバード大学に戻り、哲学を続けた。1912年、18歳のときに、数理論理学に関する論文によりハーバード大学よりPh.D.を授与された。
そして、ケンブリッジ大学(イギリス)に留学し、バートランド・ラッセルの下で学ぶ。G.H. ハーディの数学の講義に感銘を受けたらしい。1914年には、ゲッティンゲン大学(ドイツ)でダフィット・ヒルベルトエトムント・ランダウの下に学ぶ。その後ケンブリッジに戻り、再びアメリカに戻った。1915年-1916年にはハーバード大学で哲学講座の講師を一年間務めた。その後ゼネラル・エレクトリックで働いたり、百科事典『エンサイクロペディア・アメリカーナ』の編集執筆者として働いた後、メリーランド州アバディーン性能試験場弾道学に関する仕事に就いた。戦争が終わるまでメリーランドで過ごした後、1919年、24歳のときに、マサチューセッツ工科大学(MIT)数学科の講師の職を得た。ウィーナーは学生の間では、お粗末な講義のスタイル、ジョークや、放心状態となることで有名だった。彼は批判に対して過敏なことで知られ、躁うつ的な傾向があった。
MITに勤める傍ら、彼は度々ヨーロッパに渡航した。1926年にドイツ移民のマーガレット・エンゲマンと結婚し(彼らの間には二人の娘が生まれている)、その後再びグッゲンハイム研究員としてヨーロッパに渡った。彼はゲッティンゲンやケンブリッジで過ごしたほとんどの時間を、ブラウン運動フーリエ積分、調和解析、Dirichlet問題、タウバー型定理などに関する研究に費やした。
第二次世界大戦中の、彼の射撃制御装置に関する研究は、通信理論への関心を総合し、サイバネティックスを定式化することへ彼を促した。戦後、彼は自身の影響力を行使し、ウォーレン・マカロックウォルター・ピッツらの人工知能計算機科学神経心理学の分野における当時最も優れた研究者の幾人かをMITに招いた。 しかし後に、突然かつ不可解に、ウィーナーは苦心して集めた彼ら研究チームとの関係を全て絶った。その理由については、ウィーナーの鋭敏すぎる感情や、妻マーガレットの関与など、様々な原因が推測されている。いずれにしても、この出来事は、この時代で最も成功を約束されたはずだった科学的共同研究グループのひとつの、早すぎる結末であった。しかしこのMITに集められたメンバーらは、後の計算機科学他の発展に影響を残すこととなる。
グループとの断絶にも関わらず、ウィーナーはサイバネティックス、ロボティクスオートメーションなどの分野で新たな境地を開拓し続けた。彼は研究において才能を発揮し続け、また彼の理論と発見を他の研究者と自由に共有した。不幸にも、冷戦時代においてはこの態度は、ソビエト連邦の科学者への支持の表明などにもよって、様々な疑念を呼び起こした。さらにウィーナーは共産主義者の嫌疑をかけられ、赤狩りの対象にもなった。
第二次大戦後、ウィーナーは、科学研究への政治の干渉や科学の軍事化の問題に関心を強く持つようになった。彼は「ある科学者の反乱」(A Scientist Rebels)と言う題の論説をアトランティック・マンスリー1947年1月号上で発表し、その中で科学者に対し、自身の研究が持つ倫理的な含意を熟考するように強く主張した。彼自身は軍事関連のプロジェクトで働くことや政府からの援助を受けることを拒絶した。
彼は、オートメーション技術を、生活の質を高め、貧困地域を発展させるのに用いるという構想の強力な支持者だった。これらの構想はインドに大きな影響を与え、1950年代に彼はインド政府に助言を与えていた。1950年に記した『人間機械論』で学歴社会を「統治者は永久に統治者であり、兵士は永久に兵士であり、労働者は労働者に運命づけられている」とし、「昆虫は成長の過程で脱皮し、神経系を破壊されるので、幼虫から成虫に多くの記憶を移すことができない。人間以外の哺乳類は学習によって獲得する後天的な能力より、持って生まれた先天的な能力が優先させ、人間と他の動物の決定的な違いは学習である」と述べている〔''The Human Use of Human Beings'' (1950, 『人間機械論』 みすず書房)、P50〕。
1964年ストックホルム(スウェーデン)において没した。69歳。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ノーバート・ウィーナー」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Norbert Wiener 」があります。




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