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ノルマンディ・ニーメン(Normandie-Niemen、)は、自由フランス軍の戦闘飛行隊、後に戦闘飛行連隊(3コ飛行隊で編成)である。この部隊は第二次世界大戦の東部戦線において第1空軍と共に作戦に従事した。この連隊は、イギリスの第151航空団と共に僅か2つしかない第二次世界大戦中の東部戦線に参加した西側の連合国の部隊の1つとして著名であり〔1941年9月から10月の短期間の間第151航空団の第81飛行隊と第134飛行隊の部隊員がムルマンスクに駐屯し、輸送船団の上空援護と後にホーカー ハリケーンでのソ連空軍パイロットの訓練に当たった。この間にドイツ軍機15機を撃墜し、1機を失った。〕、ヨーロッパでの戦争終結までソ連軍と共に戦った唯一の航空部隊である。 この部隊は第二次世界大戦中の1943年半ばに編成された。当初この飛行隊(''groupe'')は、フランス軍人が全ての戦域で戦うことが重要だと感じていた自由フランス軍の指導者であるシャルル・ド・ゴールの提案により東部戦線のソ連軍の援助に送られたフランス人戦闘機パイロットの一団により構成されていた。 この部隊は初代指揮官ジャン・テューレーン(Jean Tulasne)が率いる自由フランス空軍のGC3(''Groupe de Chasse 3'':第3戦闘飛行隊)であり、1943年3月22日から1945年5月9日までの3つの戦いでソビエト連邦側で戦った。この間に273機の敵機を撃墜し、フランスのレジオンドヌール勲章やソ連の赤旗勲章を含む両国の数多くの勲章や表彰を授与された。ヨシフ・スターリンはネマン川の戦いへの参加に対して部隊にネマン(ニーメン)の名称を与えた。 2005年時点でこの部隊はダッソー ミラージュ F1 CT戦闘機を装備する1/30飛行隊として知られる。この飛行隊は2010年6月に一旦解隊されたが、2011年初めに再編成された。 == 作戦履歴 == 1941年6月のドイツ軍のロシア侵攻から6カ月後に自由フランス軍とソビエト連邦の間の緊密な連携を目的とした会談が持たれた結果、当初12名の戦闘機パイロットと47名の地上要員で構成される東部戦線に従軍する特別飛行隊を編成することになった。ドゴールは1942年9月1日にプリカン(Pouliquen)少佐指揮の第3戦闘飛行隊「ノルマンディ」(''Groupe de Chasse'' GC 3 ''Normandie'')の発足を公式に発表した。整備員、パイロットと機材が列車と空路を使いテヘラン(イラク)経由でバクー(2006年現在アゼルバイジャンの首都)へ送られた。部隊はジャン・テューレーン少佐が飛行隊の指揮を引き継いだ1943年1月末までにヤコヴレフ Yak-7を使用した訓練を完了しており、3月22日には実働状態となった。 ヤコヴレフ Yak-1戦闘機を装備したGC 3の最初の戦闘は10月5日まで続いたPolotniani-ZavodとSloboda/Monostirtchina間で行われた戦いの中での交戦であった。4月5日の最初の空中戦で撃墜したフォッケウルフ Fw190から部隊の戦果は仰々しく祭り上げられ、ドイツのヴィルヘルム・カイテル元帥が捕虜としたフランス人パイロツトは処刑するようにという命令を出すほどにソ連のプロパガンダから焦点が当てられるようになった。 テューレーンは7月17日の戦闘で戦死し、ピエール・プイヤード少佐が指揮を引き継いだ。10月11日にドゴールは飛行隊に「コンパニオン・ド・ラ・リベラシオン」勲章を与えた。1943年11月6日にGC 3がトゥーラに移動したときには部隊が実働状態になってから72機の戦果を数えていたが、部隊発足時から所属しているパイロットは僅か6名となっていた。前線任務となった最初の年で部隊は86機(確定77機、未確定9機)の撃墜と16機の敵機に損害を与えたが、その代償に25機のYak戦闘機を失った。 1944年に飛行隊(''groupe'')は4番目の「エスカドリル」(飛行隊)を隊列に加え飛行連隊(''régiment'')へと拡充された。トゥーラでより高性能なヤコヴレフ Yak-9Dでの訓練を終えると拡充された連隊は2度目の戦いのために再度前線任務に戻った。この戦いは1944年11月27日までドゥブロフカ(Doubrovka、ロシア)と(Gross-Kalweitchen、東プロイセン)周辺で行われた。この戦いの間にネマン川(ニーメン川)を占拠する戦いへの参加の功績を表彰してヨシフ・スターリンは連隊を「ノルマンディ・ニーメン」という部隊名称にするように命じた。東プロイセンに対する新しい攻勢の初日10月16日に連隊のパイロットは損失を出さずに29機の戦果をあげたと申告した。部隊は翌月にはドイツ領内に拠点を置いていた。同年末にプイヤードは連隊指揮官の任を解かれ、その他の熟練パイロット達と共にフランスへ帰国した。連隊の指揮はルイ・デルフィーノに引き継がれ、1944年末までに部隊は201機の戦果をあげていた。 1945年1月14日に「ノルマンディ・ニーメン」は、ヨーロッパに於ける戦争終結の日であるV-Eデー後の東部での公式な勝利が宣言された5月9日まで続くドイツ第3帝国の東プロイセンを中心に繰り広げられた3度目の戦い(Dopenenからハイリゲンバイルまで)に参戦した。ソ連は37機のヤコヴレフ Yak-3をフランスへの贈り物として提供することで部隊への感謝を表明した。パイロット達は1945年6月20日にパリに帰還士、英雄としての歓迎を受けた。 戦争終結時点で部隊は確定273機と不確定37機を撃墜し、それに対し自部隊の87機と52名のパイロットが撃墜された。約5,240ソーティを実施して869回の空戦を行った。その他に27両の列車、22両の機関車、2隻のSボート、132台のトラック、24台の兵員輸送車両も破壊した。部隊のパイロットのうち42名が戦死し、30名がエースパイロットの資格を得た〔Bernole, Andre, and Glenn Barnett, "French Aces on the Eastern Front", ''WWII Quarterly'', Fall 2011, pp. 16-25, 94.〕。 マルセル・アルベール、マルセル・ルフェーヴル(Marcel Lefèvre)、ジャック・アンドレ(Jacques André)、ロラン・ド・ラ・ポップの4名のパイロットがソ連邦英雄となった。 この部隊はブリャンスク、オリョール、エリニャ、スモレンスク、ケーニヒスベルク(後にソ連によりカリーニングラードと改名)、ピラウといった戦闘で戦闘名誉章を授与された。フランスからはレジオンドヌール勲章、クロワ・ド・ラ・リベラシオン勲章、Médaille Militaire、クロア・ド・ゲール勲章と6つのパルム(''palmes'')勲章を、ソ連からは赤旗勲章、アレクサンドル・ネフスキー勲章とこの2つの勲章の間に10度に及ぶ表彰を受けた。 生き残ったYak-3戦闘機は減少して行き、現在は1機がフランスのル・ブルジェ航空宇宙博物館に展示されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ノルマンディ・ニーメン」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Normandie-Niemen 」があります。 スポンサード リンク
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