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ノヴゴロド()は、ロシアの北西連邦管区、ノヴゴロド州の州都。人口は216,856人(2002年国勢調査、1989年国勢調査では229,126人)。イリメニ湖とそこから流れ出るヴォルホフ川に沿って位置する。1998年以降、現在の公式名称は大ノヴゴロド(ヴェリーキー・ノヴゴロド )。ロシア最古の都市であり、中世までノヴゴロド公国として存在していた。1992年に『ノヴゴロドと周辺の文化財』としてユネスコの世界遺産に登録された。 なおニジニ・ノヴゴロドとは別の都市であり、それと区別して本項目の都市を「大ノヴゴロド」(ヴェリーキー・ノヴゴロド、、Veliky Novgorod)とよぶことがある。 == 歴史 == 名前を訳すと『新しい街』の意になるが、その名に反してロシアで最も古い都市。なお、この都市はノヴゴロド公国以前のルーシと呼ばれる人々によって建国されたと言う「ルーシ・カガン国」の中心的都市で、旧名は『ホルムガルド』(Holmgard、古ノルド語:「川の島の城」)と呼ばれていたと言われている。この都市は、考古学調査により、860年代か870年代に火災によって焼失しておりその後再建されたと言う。 開かれたのかがいつかは正確には分かっていないが、『過ぎし歳月の物語』(『原初年代記』とも言う)によると854年か859年といわれている。862年スウェーデン・ヴァイキング(ヴァリャーグ)のノルマン人・ルス族(ロシアの語源)が首長リューリク(?~879年)に率いられてノヴゴロドを占領し、スラヴ人を征服してロシア最初の国家を建設した。このことから、ロシア建国の地とも目されており、1862年、リューリク即位1000周年を記念して、ロシア1000年記念碑が市内中心部に建立されている。 コンスタンティノープルに近いキエフが政治の中心になるに従って、ノヴゴロドは商業・工業に優れた独自の自由都市、ノヴゴロド公国へと変遷していく。 名目上の長として外部から公を招きつつも、大主教や都市貴族を中心とした民主共和政体が敷かれており、公が大主教や都市貴族達の意に沿わなくなると自由に罷免する権利を有していた。 13世紀、モンゴル帝国のバトゥが侵攻し、キエフその他ロシア主要都市のほぼ全てが灰燼に帰す中、運良く侵攻を免れたノヴゴロドは、その後モスクワがロシアの歴史の表舞台に登場するまでの間、ロシアの中心都市として機能することになる。 1478年にノヴゴロド公国はモスクワ大公国によって併合された。 1570年この時期のツァーリであるイヴァン4世(雷帝)により町全体における粛清が行われる()。原因はイヴァン3世によって力づくでロシア領に組み入れられてしまった結果、重税をかけられ、思い通りの交易もままならぬ状態に住民の不満が、最高潮に達していた事、またノヴゴロドはハンザ同盟の中枢であったことから、住民の持つプライドが高く、 これらの要素がイヴァン4世にノヴゴロドのポーランドへの寝返りを確信させた事によるとされる。当時のノブゴロドの人口4分の3にあたる約6万人もの住人が拷問の末虐殺されたとされ、死体は氷の浮いたヴォルホフ川に葬られ、その後何日も運ばれて流される何万とも知れぬ遺体のために溢れかえり、ラドガ湖の底はおびただしい遺骸で厚い層を成したと記録に残っている。 17世紀初頭、ロシアでは大動乱という内戦が起こり、1611年にノヴゴロドは介入してきたスウェーデンのグスタフ・アドルフ(後スウェーデン王)に占領された。そして同年、ツァーリ不在のロシアにスウェーデン王子カール・フィリップがノヴゴロドにおいてツァーリに選出された。しかしツァーリはロシア全体では認められず、自称に止まり、スウェーデンで国王が代替わりした後、1617年に撤退した。 ノヴゴロドは、その後のロシアでは一地方都市となり、現代でも小都市の佇まいを残している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ノヴゴロド」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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