|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana) ・ 党 : [とう] 1. (n,n-suf) (1) party (political) 2. (2) faction 3. -ite
ノウ・ナッシング()は、1850年代に外国人排斥を掲げたアメリカ合衆国の政治的会派による運動の名称であり、政党名あるいは団体名として使われることもある。その訴えたものは移民の政治的抑制と反カトリック教会感情であり、時として標的にした集団に対する暴力沙汰を起こした。当時、非常に多くのドイツ系やアイルランド系のカトリック教徒移民がアメリカ合衆国に渡っていたので、一般大衆の頭には、これら移民によって国内が席捲されてしまうという恐怖があった。これら移民は、アメリカ合衆国の共和主義の価値観に敵対し、ローマの教皇によって操られていると見なされることが多かった。ノウ・ナッシングの活動は1854年から1856年にかけて盛り上がり、移民の入国や帰化を抑制しようとしたが、ほとんど成功しなかった。運動に参加した者達はイギリス系の血を引くプロテスタントの男性に限られていた。著名な指導者は居らず、大部分が中流階級だった。当時の政治的問題の焦点だった奴隷制度への対応で分裂した。 外国人排斥主義者は1843年のニューヨーク州で、「アメリカ共和党」として政治活動を行うようになった。「ネイティブ・アメリカン党」として周辺の州に広がり、アメリカ合衆国生まれの白人に訴えて、1844年の選挙では数千票を集めた。しかし、歴史家のタイラー・アンバインダーは、「ネイティブ・アメリカン党」が1850年代の選挙でノウ・ナッシングとは別の候補を立てたので、同じ会派と見るべきではないと警告している〔Anbinder, ''Nativism and Slavery'', p. 59〕。 1850年代前半、多くの反カトリック教会秘密結社が登場し、その中でも「オーダー・オブ・ユナイテッド・アメリカン〔Louis D. Scisco, ''Political Nativism in New York State,'' (1901) p 267〕」と「オーダー・オブ・スター・スパングルド・バナー」が重要な存在になった。彼等は1850年代前半のニューヨーク州で秘密結社として合流し、急速にアメリカ合衆国北部中に広がり、特に中流の下の階級あるいは熟練労働者が多かったプロテスタントの間に浸透した。部外者が彼等のことを「ノウ・ナッシング」と呼んだので、その名称が定着した。1855年、ノウ・ナッシングは「アメリカン党」の名称で初めて政治の世界に入った〔Wilentz pp 681-2, 693〕。「ノウ・ナッシング」の語源は党の半秘密的組織の中にあった。党員がその活動について問われたときに、"I know nothing"(何も知らない)と答えることが期待されたからだった〔Billington, pp. 337, 380–406〕。 == 歴史 == === 潜在した問題 === 1830年から1860年の間に非常に多くのドイツ系やアイルランド系のカトリック教徒がアメリカ合衆国に移民として渡ったことによって、カトリック教徒とプロテスタントの間の宗教的違いが政治問題となり、ヨーロッパにおける両教徒間の紛争を写すような緊張関係が生まれた。選挙を巡って暴力沙汰が起こることもあった。 カトリック教徒はその聖職者とは政治的に独立であると主張していたが、プロテスタントは教皇ピウス9世がヨーロッパの1848年革命を鎮圧させたので、自由主義、民主主義および共和制の敵だと主張していた。あるボストンの牧師はカトリック教会のことを「専制政治の同盟者、物質的繁栄の反対者、倹約の敵、鉄道、党員集会および学校の敵」と表現していた〔Ray A. Billington, ''The Protestant Crusade, 1800–1860'' (1938) p. 242.〕〔John T. McGreevey, ''Catholicism and American Freedom: A History'' (2003) pp. 22–25, quote p. 34.〕。教皇自ら選出し、教皇に従順なアイルランド人司祭によって管理されるカトリック教徒が次々とアメリカ合衆国に流入することで、教皇はアメリカ合衆国を従属させようとしている、という教皇陰謀説が流れて、その恐怖感が拡大した。1849年、誓いによって結束された秘密結社であるオーダー・オブ・スター・スパングルド・バナーがニューヨーク市で、チャールズ・B・アレンによって結成された。これがアメリカン党に幾つかあった部隊の中核になった。 カトリック教徒移民に対しての恐怖があったことは、多くの都市の指導者がアイルランド系カトリック教徒だった民主党には不満だった。活動家達は秘密の集団を作り、投票を操作して、自分達に同調する候補者に重み付けした投票をさせていた。党員はその秘密組織について尋ねられたときに、「私は何も知らない」と答えるようになっており、そのことで世に「ノウ・ナッシング」と呼ばれるようになった。この運動は1855年にシカゴからボストンまでの主要都市における選挙で勝利し、マサチューセッツ州議会を制し、同州知事にも当選した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ノウ・ナッシング」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Know Nothing 」があります。 スポンサード リンク
|