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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ノーベル・オースチン(Norvell Austin)は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。フロリダ州ペンサコーラ出身のアフリカ系アメリカ人。 1970年代から1980年代にかけて、フロリダ、アラバマ、テネシー、ジョージアなど南部を主戦場に、主にタッグ・プレイヤーとして活動した。 == 来歴 == デビュー後の1970年代初頭はスプートニク・モンロー(Sputnik Monroe)のパートナーとしてヒールのポジションで活動、1972年2月にはモンローに帯同して日本プロレスに初来日している。帰国後もモンローと共に南部エリアを転戦し、エディ・グラハムの主宰するNWAフロリダ地区ではジャックとジェリーのブリスコ・ブラザーズとフロリダ・タッグ王座を争った。なお、モンローとのコンビは当時では珍しい白人と黒人によるヒールの混成タッグチームとして、''"Black is Beautiful, White is Wonderful"'' をキャッチフレーズにしていた。 モンローとのチーム解散後、メキシコ湾岸のガルフ・コースト地区を経て、1975年よりテネシー州メンフィスのNWAミッドアメリカ地区(後のCWA)に定着。ベビーフェイスに転じてパット・バレットやビル・ダンディーとタッグを組み、ハリウッド・ブロンズなどのチームと南部タッグ王座を争った。1970年代末にはジム・バーネットの運営するNWAジョージア地区にも進出、黒人レスラーの先輩ルーファス・ジョーンズと組み、1979年4月25日にイワン・コロフ&オレイ・アンダーソンからジョージア・タッグ王座を奪取している。 1980年9月には、ビル・ドロモ、ロン・バス、ランディ・ローズ、そして第2次シリーズより参加のビッグ・ジョン・クインやアレックス・スミルノフらと共に国際プロレスに来日。エースのラッシャー木村をはじめ、大木金太郎や阿修羅・原ともシングルマッチで対戦した。 以降もベビーフェイスのポジションでアラバマのサウスイースタン・チャンピオンシップ・レスリングを主戦場としたが、1981年に再びヒールターンし、ランディ・ローズ&デニス・コンドリーとミッドナイト・エクスプレス(''The Midnight Express'')を結成、1980年代に一世を風靡した歴史的タッグチーム・ユニットのオリジナル・メンバーとなった。1982年には古巣テネシーのCWAにて、コンドリーとのコンビでAWA南部タッグ王座を再三獲得。スティーブ・カーンとスタン・レーンのファビュラス・ワンズなどのチームと抗争を展開した。 オリジナル版ミッドナイト・エクスプレスは1983年末に一旦解散、オースチンはCWAに継続参戦し、1984年よりココ・ウェアとの黒人タッグチーム、プリティ・ヤング・シングス(''The Pretty Young Things'')を結成。PYTエクスプレス(''The PYT Express'')とも呼ばれ、トミー・リッチとエディ・ギルバートのニュー・ファビュラス・ワンズ、イライジャ・アキームとカリーム・モハメッドのザンブイ・エクスプレスなどとAWA南部タッグ王座を争った〔。テキサス州ダラスのWCCWやNWAフロリダ地区にも進出し、フロリダではパーシー・プリングル3世をマネージャーに迎え、1985年2月26日にジェイ・ヤングブラッドとマーク・ヤングブラッドの兄弟チームからUSタッグ王座を奪取している。 PYT解散後はアラバマのSECWに戻り、フェイスターンしてブリックハウス・ブラウンと新コンビを結成。1986年1月6日にはエイドリアン・ストリートを破りNWAサウスイースタン・ヘビー級王座を獲得した。 1980年代末の引退後は、2004年9月にアラバマのコンチネンタル・レスリングにレジェンドとして特別出場し、ランディ・ローズとのオリジナル・ミッドナイト・エクスプレスを再結成した〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ノーベル・オースチン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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