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ノーム・キャッシュ(Norman Dalton Cash , 1934年11月10日 - 1986年10月12日)は、アメリカ合衆国・テキサス州ジャスティスバーグ出身の元プロ野球選手(一塁手)。左投左打。 主にデトロイト・タイガースで活躍し、通算377本塁打を記録。1974年に引退した時点ではア・リーグの左打者としてはベーブ・ルース、テッド・ウィリアムズ、ルー・ゲーリッグに次ぐ歴代4位であり、タイガースでは長年チームメイトとして共にプレイしたアル・ケーラインの399本塁打に次ぐ2位である。 ゴールドグラブ賞獲得歴こそないが、一塁守備も巧みで、ア・リーグ守備率1位が3回。引退した時点で通算の補殺1,317はメジャー歴代4位、併殺1,347は10位であった。また、一塁手としての出場1,943試合は引退時点でア・リーグ歴代5位であった。 == 経歴 == サルロス州立大学では野球の他にアメフトでもランニングバック(RB)として活躍し、NFL・シカゴ・ベアーズからも指名された。しかし、その指名を断って1955年にシカゴ・ホワイトソックスに入団。1957年は兵役に就き、メジャーデビューは6月18日であった。この年は13試合の出場で本塁打は0。翌にチームはリーグ優勝し、ワールドシリーズに進出するが、この年も58試合の出場で4本塁打に終わる。その年の12月に、8選手が絡む交換トレードでクリーブランド・インディアンスに移籍するが、インディアンスからさらに交換トレードでデトロイト・タイガースに移籍。以後、に引退するまで15シーズンをタイガースでプレイすることとなる。 移籍初年度のに121試合に出場し、打率.286、18本塁打とまずまずの成績を残すと、には打率.361で首位打者を獲得。安打193、出塁率.488もリーグ1位で、本塁打41(6位)、打点132(4位)と大活躍。もっとも、この年はニューヨーク・ヤンキースのロジャー・マリスが61本塁打のメジャー新記録(当時)を達成したため、注目度では劣ったが、それでもタイガースが優勝したヤンキースから8ゲーム離されていたにも関わらず、MVP投票では4位に入った。引退後、この年にコルクバット(規則違反)を使用していたことを認めた。しかも、どうやってバットに穴をあけて、おがくずとコルクと接着剤をどの混合率で配分したかまで告白した。その効果もあったか?同年6月11日にタイガー・スタジアム開場以来初の場外本塁打を打つ。他にも、同球場ライトの屋根の上にも4回本塁打を飛ばしている。 以後のシーズンは、打率は最高でも.283、打点は100を超すことはなく、30本塁打も4シーズンだけであった。特にには打率が前年の.361から.243まで落下。.118の打率低下は、歴代首位打者のワースト記録である。ただし、この年も39本塁打、89打点と活躍。以後も、アル・ケーラインと共に主力打者として活躍。本塁打王のタイトルはならなかったが、3回(1962年、、)にわたってリーグ2位の本塁打を記録。一塁守備も巧みで、刺殺1回(1961年)、守備率2回(1964年・1967年)、補殺3回(1965年 - 1967年)リーグ1位になっている。また、度々スランプに陥るが立ち直り、1965年との2回、カムバック賞を受賞している。 にはチームのリーグ優勝に貢献し、セントルイス・カージナルスとのワールドシリーズに出場。このシリーズでは打率.385(26打数10安打)を記録。3勝3敗で迎えた第7戦では、ワールドシリーズ7連勝を記録していたカージナルスのエース、ボブ・ギブソンからシングルヒットを放ち、攻撃の口火を切った。この回タイガースは3点を奪い、以来23年ぶりのワールドチャンピオンとなった。1972年にもチームは地区優勝。オークランド・アスレチックスとのリーグチャンピオンシップシリーズ第1戦では2回表に先制ソロ本塁打を放つ。しかしチームはこの試合延長戦で敗れ、最終戦までもつれ込んだシリーズも2勝3敗で敗れて、ワールドシリーズ進出はならなかった。は開幕から53試合出場で打率.228の不振で8月に解雇となり、そのまま現役を引退した。 引退後、1976年よりABCの野球解説者、1981年から1983年までタイガースのケーブル放送の解説者を務めた。1986年10月12日、ミシガン湖北部のビーバー島でボートの事故で死亡。51歳。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ノーム・キャッシュ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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