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ハイドン・セット(ハイドン四重奏曲)は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの作曲した6曲の弦楽四重奏曲(K.387、K.421、K.428、K.458、K.464、K.465 )である。まとめてヨーゼフ・ハイドンに献呈されたので、「ハイドン・セット」または「ハイドン四重奏曲」と呼ばれる。 モーツァルトが2年あまりを費やして作曲した力作であり、古今の弦楽四重奏曲の傑作として親しまれている。 出版前、1785年1月15日と2月12日に、モーツァルトはハイドンを自宅に招き、この6曲の全てまたは数曲を披露している。モーツァルトはその際自らヴィオラを弾いたと伝えられる。 *作曲:1782年12月31日〜1785年1月14日 *献呈:ヨーゼフ・ハイドン *編成:ヴァイオリン2、ヴィオラ1、チェロ1 *出版:1785年ウィーンアルタリア社より == 作曲の背景 == ヨーゼフ・ハイドンがモーツァルトに及ぼした影響は、大きい。 モーツァルトが最初にハイドンの手法を学んで作曲したと思われる弦楽四重奏曲は、1773年にウィーンで完成した第8番〜13番(K168〜173)の6曲である。これはハイドンの太陽四重奏曲Op.20(6曲)から影響を受けたものと考えられる。なお、当時、この種の作品は6曲まとめて出版される習慣があった。 モーツァルトにとって大きな転機は1781年に訪れた。ハイドンが、太陽四重奏曲を作曲してから実に10年ぶりに、新たな弦楽四重奏曲であるロシア四重奏曲Op.33(6曲)を完成させたのである。この作品群は、ハイドン自ら「全く新しい特別の方法で作曲された」と称したとおり、弦楽四重奏曲史上、非常に画期的な意味を持つ。ロシア四重奏曲をもって、弦楽四重奏曲は古典主義的ソナタ形式を確立するに至った。 モーツァルトはこの意義の重要性を認め、ロシア四重奏曲を研究し自らも新たな弦楽四重奏曲の作曲を決意する。だが、これは難事業であった。速筆なモーツァルトが、わずか6曲の作品群を完成させるのに2年あまりという、彼にとっては非常に長い時間を費やして、ようやく完成の目を見たのが、「ハイドン・セット」と呼ばれる6曲の弦楽四重奏曲である。もちろん、モーツァルトはその間も他の作品を生み出していたので、弦楽四重奏曲のみにかかりきりだったわけではない。しかし、それを考慮に入れても彼がかけた2年という歳月は特別な意味を持つといえるだろう。 モーツァルトは「ハイドン・セット」の出版時に、イタリア語で書かれた、ハイドンへの深い敬愛の念を込めた献辞の中で、24歳年上のハイドンに、「わが最愛の友」と呼びかけ、この曲集を「長く困難な苦労の果実」と述べ、また、この曲を自らの息子にたとえて、ハイドンの「庇護と指導のもとにあらんことを」との言葉を贈っている。 これより先、モーツァルトは1785年1月15日と2月12日に、ハイドンをウィーンの自宅に招き、これらの新曲を披露した。ハイドンはそこで大きな感銘を受け、同席したモーツァルトの父レオポルト・モーツァルトに「神と私の名誉にかけて申し上げる。あなたのご子息は、私の知る、あるいは評判で知っている、全ての作曲家のうちで最も偉大な方です。彼は優れた趣味を持ち、さらには、最も優れた作曲の知識を持っています」と最大級の賛辞を述べ、その才能を激賞した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ハイドン・セット」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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