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ハインツ・コフート : ミニ英和和英辞書
ハインツ・コフート[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ハインツ・コフート : ウィキペディア日本語版
ハインツ・コフート[ちょうおん]

ハインツ・コフートHeinz Kohut, 1913年5月3日 - 1981年10月8日)はオーストリア出身の精神科医精神分析学者。精神分析的自己心理学の提唱者で、今日の自己愛研究や間主観的アプローチの端緒を開いた。自己愛性パーソナリティ障害の研究に先鞭をつけたことでも知られる。
== 生涯 ==
1913年5月3日、オーストリアの首都ウィーンに、ユダヤ人音楽家フェリックス・コフート(Felix Kohut、復員後、製紙業者に転身)とエルゼ・ランプル(Else Lampl) の長男として生を受けた。父フェリックスは第1次世界大戦に従軍していたため、1歳から5歳までは母エルゼと2人暮らしであった。
1932年、ウィーン大学医学部に入学し、1938年に学位を得たが、ナチスの迫害から逃れるべく、1939年3月にウィーンを発ち、イギリスに亡命した。なお、1937年から1938年にかけて、アウグスト・アイヒホルン (August Aichhorn) による精神分析を受けていた。
1940年3月、同じくアイヒホルンから分析を受けていたクルト・アイスラー(Kurt Eissler) がシカゴで精神分析オフィスを開業していたことや、友人ジークムント・レバリー(Siegmund Levarie) がシカゴ大学音楽学部の講師をしていたことを受けて、シカゴに移住した。同年、同大学医学部の精神神経学教室(神経学部門)に入局し、1944年に助教授に昇進した。
1946年、精神分析家の養成機関であるシカゴ精神分析研究所 (Chicago Institute for Psychoanalysis) に入所し、1950年に精神分析家の資格を得た。これを受けて、同年、シカゴ大学を退職した。
私生活では、1948年にソーシャル・ワーカーのエリザベス・マイアーズ (Elizabeth Meyers) と結婚し、1951年に長男トーマス・オーガスト (Thomas August) を授かった。
1953年、同研究所の教育スタッフに昇進し、1955年にはアメリカ精神分析学会誌の編集委員に選出された。また、自我心理学派の大御所ハインツ・ハルトマン (Heinz Hartmann) に目を掛けられ、彼を通じて、精神分析学界の総帥的な立場にあったアンナ・フロイト (Anna Freud) とも交流を持つようになった。こういった後押しもあり、1963年には同研究所の所長に選出され、翌1964年にはアメリカ精神分析学会 (American Psychoanalytic Association) の会長に就任した。
1968年から国際精神分析学会 (International Psychoanalytical Association) の会長選挙に向けて準備を進めていたが、落選が濃厚となったため、翌年、立候補を断念した。また、1970年に行われたシカゴ精神分析研究所の所長選挙にも敗れている。この頃から、後の自己心理学につながる独自の構想を打ち出し始め、1970年には自己研究会 (Self Conference) を立ち上げた。
なお、自己心理学の理論的な先駆けとなったのが、1968年に発表された論文「自己愛性パーソナリティ障害の精神分析的治療」であり、一連の論文は1971年に『自己の分析』として書籍化された。しかし、当時は欲動心理学(ジークムント・フロイト以来の伝統的な精神分析理論)や自我心理学の理論から逸脱する問題作と位置づけられ、賛否両論であった。加えて、同年、悪性リンパ腫を発症し、彼にとって不遇の時期であった。
1977年、欲動心理学や自我心理学との差異を明確に打ち出した意欲作『自己の修復』を発表した。本作は従来の理論に固執する精神分析家たちの猛烈な反発を買い、アンナやアイスラー夫妻とも疎遠になった。その一方で、翌年にはシカゴで第1回自己心理学年次総会(現在の自己心理学年次国際総会、Annual International Conference on The Psychology of The Self)を開くなど、新しい学派としての地歩を着実に固めつつあった。
晩年は生命保険の加入許可が下りないほどの満身創痍の身で、1981年10月8日、末期がんのため、移住地シカゴで亡くなった。なお、1984年に出版された『自己の治癒』は、コフートが生前に書き溜めていた論文や講演内容を同僚のアーノルド・ゴールドバーグ (Arnold Goldberg) が編集したものである。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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