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ハインリッヒ・ベル ( リダイレクト:ハインリヒ・ベル ) : ウィキペディア日本語版
ハインリヒ・ベル


ハインリヒ・テオドール・ベル(Heinrich Theodor Böll, 1917年12月21日 - 1985年7月16日)は、ドイツ作家。1972年にノーベル文学賞を受賞。作品や発言はドイツ国内で大きな社会的影響力を持った。
==生涯==
ドイツのケルンで、町工場を営む家具職人の息子としてカトリック教徒の一家に生まれる。彼は1933年にナチスが政権につき、ギムナジウムの同級生の大多数がヒトラー・ユーゲントに加わる中で不参加を守り続けた。高校卒業後、本屋に弟子入りし、その後ケルン大学でドイツ語を研究した。1939年にドイツ国防軍に召集され、第二次世界大戦中はフランスルーマニアハンガリーソ連を転戦し、それらの戦地で四度の負傷をし、1945年4月にアメリカ軍に捕らえられ捕虜収容所に送られた。しかし、彼は凍傷で足の指を全て失い、生涯病院への通院を余儀なくされた。休暇中の1942年に結婚し、息子が生まれたが1945年に亡くしている。
戦後1946年から短編小説を書き始め、1949年に最初の長編小説『汽車は遅れなかった』を出版、1951年に『Die schwarzen Schafe』で47年グループ賞を受賞、1953年の『そして一言も言わなかった』でその名声を広める。これらの作品は「廃墟の文学 ''Trümmerliteratur''」と呼ばれた。その後多くの物語、短編小説、ラジオドラマの脚本やエッセイを書き著す。1971年に発表した『婦人のいる群像』により1972年ノーベル文学賞を受賞し、1946年のヘルマン・ヘッセ以来のドイツ人受賞者となった。1970年代に西ドイツで過激派によるテロが活発化した際、ベルは1972年1月の『シュピーゲル』誌上でテロに対する冷静な対応を訴えたことでジャーナリズムから袋だたきにされ、テロリスト同調者とまで呼ばれた。1974年に大衆新聞のあくどさを描いた『カタリーナ・ブルームの失われた名誉』は120万部を越える空前のベストセラーとなる。彼の作品は30語を超える言語に翻訳された。彼はドイツで最も広く読まれた作家のうちの一人である。
1969年からは西ドイツペンクラブ会長、1971年からは国際ペンクラブの会長を務めた。新しいドイツの代表として頻繁に旅行し、その物腰はヒトラー政権下に悪評が高まったドイツ人の尊大な態度とは対照的な、謙虚なものであった。彼の作品は資本主義の暗い側面を描写し、西側諸国だけでなくソ連や東欧諸国でも多くの読者を得て、数百万ものコピーがソ連国内で販売された。アレクサンドル・ソルジェニーツィンがソ連から追放された時、彼は最初にベルの家に避難した。1983年にはケルンの名誉市民に選ばれる。後には妻と共にケルンおよびアイフェルで暮らした。
1985年に67歳で死去。取り上げた新聞等では「民族の良心」「判断の機関」などと称された。その後ハインリヒ・ベル財団が設立され、ケルン図書館にはハインリヒ・ベル・アーカイヴ(アルヒーフ)が設置された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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