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ハインリヒ・フォン・ヘルツォーゲンベルク : ミニ英和和英辞書
ハインリヒ・フォン・ヘルツォーゲンベルク[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ハインリヒ・フォン・ヘルツォーゲンベルク : ウィキペディア日本語版
ハインリヒ・フォン・ヘルツォーゲンベルク[ちょうおん]

ハインリヒ・フォン・ヘルツォーゲンベルク
*1843年6月10日 グラーツ - †1900年10月9日 ヴィースバーデン)はオーストリア作曲家指揮者・音楽教師。称号も含めた公式な氏名は、Heinrich Picot de Peccaduc, Freiherr von Herzogenberg (またはHeinrich Freiherr von Herzogenberg)で、フランス貴族の末裔である。
== 略歴 ==
ウィーン法学と音楽を学び、作曲オットー・デッソフらに師事。当初はワーグナーの音楽に耽溺したが、バッハ研究を通じて古典派音楽に強い愛着を示すに至り、ブラームスの熱心な崇拝者となった。ブラームスのピアノの弟子エリザベート・フォン・シュトックハウゼン(Elisabet von Stockhausen,
*1847年4月13日 パリ - 1891年1月7日 サンレモ)と結婚。ブラームスとヘルツォーゲンベルク夫妻の往復書簡は、ブラームスのその手の文書の中で最も愉快な例となっている。1874年にバッハ研究者(音楽学者フィリップ・シュピッタとともに、ライプツィヒ・バッハ協会を創設。これはバッハのカンタータの復興に関係する組織であった。ヘルツォーゲンベルクは、10年間にわたって同協会の芸術監督をつとめ、この間にエセル・スマイスらの作曲の門人を育成した。1885年からベルリン音楽高等学校作曲科教授に就任し、その立場から、青年レイフ・ヴォーン・ウィリアムズマックス・ブルッフへ師事するよう助言している。1900年死去。最晩年は関節の壊死により車椅子に乗って過ごした。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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