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ハウク・エルレンズソン : ミニ英和和英辞書
ハウク・エルレンズソン
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ハウク・エルレンズソン : ウィキペディア日本語版
ハウク・エルレンズソン
ハウク・エルレンズソン (、、13世紀生 - 1334年没) は、アイスランドの、のちノルウェーの法官にして騎士。多くのサガや『植民の書』などを所収する古ノルド語写本ハウクスボーク》の所有者で、その大半を直筆で書写した編著者として知られる。ハウクル、ホィクル(現代アイスランド語発音)などとも表記される。
==生涯==

ハウクの父は、(仮訳名) ()と名乗り、あるいは「肥満の」()ともあだ名されていた人物である。1312年に死没している。〔〔"Erlendur digre" 「肥満のエルレンド」という呼び名は、スカールホルトの司教の書簡(1286年)に見られる: ''Diplomatarium islandicum'', Vol. II, p.136-7。エルレンドの父称つまり父の名を原典で見かける箇所は乏しいが、前述の書の索引では「オーラヴソン」の父称が使われている。〕 ハウクの生年は不明であるが〔、その母の名はヨールン()といい〔『植民の書』 II部XIX章 (''Islandinga sögur'', 第1巻, p. 138; )。白髪のヘグニには、エイレクという息子がおり、ゲイルレイヴ、オッドレイヴ、ゲストと代がつづく。ゲストの娘ハッラの息子ソルギルス(Þorgils)は、叔母にあたるゲストの娘ソレイ(Þorey)を妻としたようで、その子ソラリン(Þorarin)から、女ヨーディス(Jódis)、イルッギ、エイヴィンド、ステイングリーム、女ヘルガ、女ヨールンとなり、その息子がハウクである。〕、その先祖は『ハールヴとハールヴスレックのサガ』(''Hálfs saga ok Hálfsrekka'')の伝説的な主人公、のハールヴ王(Hálfr Hjörleifsson)の兄弟に遡ることができると指摘されており〔による指摘:〕、『植民の書』で確認することも可能である〔『植民の書』 第 II部、第 XIX章。ハウクの母親の祖先、(仮訳名)白皙のヘグニ(Högni hinn hvíti Óblauðsson)の祖父はオートリュッグと言い、ハールヴ王の兄弟であった。()〕〔蛇足だが、前述の白皙のヘグニには、ハウクの祖先とは兄弟の (仮訳名)やぶにらみのウールヴ(Úlfr inn skjálgr)がおり、これは親戚のゲイルリーズ(Geirríðr)を伴ってアイスランドに定住したが、このウールヴの孫娘ショーズヒルド(Þjóðhildr)は赤毛のエイリークの妻となった。(『植民の書』 第 II部、第 XIX章(前述)、第XXII章 )。すなわちハウクはレイヴ・エイリークスソンの直系の子孫にはあたらないが、遠戚ではあった。〕。
ハウクは嫡出の子ではなかったとの推察があるが、彼の生母が妾だったか最初の夫人だったかは不明である。いずれにしろ、ある時点でハウクの生母でない女性イアルンゲルズ ()が継母として存在したことは確実で、『植民の書』ではその別の女性をエルレンドの妻と記述しており〔エギル・スカラグリームスソンの子孫イアルンゲルズがエルレンドと結婚したという記述。『植民の書』 第 II部、第 IV章。 (''Islandinga sögur'', Band 1, p. 76n; ただしこれは異本にある記述であり、『植民の書』の版本や英訳書(例:)によっては収録されていないものもある。 〕、ハウクの父が死没した1312年にはその女性が妻であったと断定できる〔 ''Diplomatarium islandicum'', Vol. II, p. 377。「1313年の寄進証書(''maldage'')」を所収。これはハウクの父が死んだ翌年に、その遺産からイアルンゲルズが教会に行った寄進。当該の教会は「ネスキルキャ」すなわち旧地名ネス=イー=セルヴォギ(Nesi í Selvogi)に在した聖母マリア教会 であった。アゥルネースシスラ県、旧Selvogshreppur行政区の一部で、現在は自治体のに組み込まれている。参照された古文書は、AM 263二つ折り版写本、第55葉(1598年に書写)である。〕。ハウクには、ヴァルゲルズ (Valgerðr)という名の異母姉妹がいた。
ハウクが結婚した相手ステイヌン (Steinunn) は、フラヴン・スヴェインビェルンソンの子孫を名乗る女性であった〔 『植民の書』:''Landnamabók'', Part III, Ch. XXV: Steinunn, er Haukr Erlendson átti" (''Islandinga sögur'', 第1巻, p.105) ; "Steinun, whom Hawk the son of Erlend had for wife." ()〕〔 は、この女性はフラヴン・スヴェインビェルンソンの孫娘とするが、『植民の書』をよく見ると、フラヴンの孫娘ステイヌンはハウクの妻の大伯叔母である。つまり、ハウクの妻はフラヴンのひ孫ではなく玄孫だった。〕。

ハウクの父親は1287年にアイスランドの(''lögmaðr'')に任官し、1289年にノルウェーに渡海して法官の地位を得、ヴェストフィルジルを領地に与えられたのが1290か1292年であったが〔付録 II "Viðrauki Melabókar ennar ýngri"の年表。''Islandinga sögur'', 第1巻, p.340〕、ハウクは幼少を超えた年齢になってから、ノルウェーですべての教育を受けた〔。

ハウクは父親と同じくアイスランドの法官という地位を、すくなくとも1294年以前に得〔、1299年まで勤続した〔。1301年頃ノルウェーに渡り、1303–22年にオスロおよびにおいて法官を務めた〔。1303年頃までには、国王評議会に列席している〔。マグヌス4世をノルウェーの王として迎える決断に関わった一人でもある〔。
この時代、(少なくともアイスランドでは)、おなじ法官の身分の人間でも、爵位を意味する「ヘッラ」(''herra'')の称号を名乗れる場合とそうでない場合があったようだが、ハウクのことをヘッラ爵号でもって宛名書きしている1309年の書簡が伝わっており〔September 1309 ì Björgvin, ''Diplomatarium islandicum'', Vol. II, p. 367.〕、1311年の書簡では、「グーラシング法官にして騎士」と呼ばれている〔12. Januar 1311 ì Björgvin。 引用文: "Haukr Erlendzson Gulaþings logmaðr riddari", ''Diplomatarium islandicum'', Vol. II, p. 372.〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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