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ハサネ・サッバーフ : ミニ英和和英辞書
ハサネ・サッバーフ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ハサネ・サッバーフ ( リダイレクト:ハサン・サッバーフ ) : ウィキペディア日本語版
ハサン・サッバーフ[ちょうおん]

ハサン・サッバーフfa: حسن صباح Ḥasan Ṣabbāḥ、生年不詳 - 1124年)は、イスラム教シーア派イスマーイール派ニザール派の開祖。11世紀から13世紀半ばまでやギルド・クーフなどイランからシリア全土の山岳要塞を拠点とした、いわゆる暗殺教団の最初の指導者。「ハサン(Ḥasan)」のあとにエザーフェ(-e/-i)をつけて、「ハサネ・サッバーフ」(ハサニ・サッバーフ Ḥasan-e Ṣabbāḥ / Ḥasan-i Ṣabbāḥ)とも言う。
== 生涯 ==
テヘラン南のクム(Qum/Qom)に12イマーム派の家に生まれた。ハサン・サッバーフの出身地クムは10世紀以降シーア派12イマーム派の中心地として発展してきた都市であり、自身も当初は12イマーム派の信徒であったという。父はイラククーファ出身で、その遠祖はイエメンの人であったと伝えられる。出生年代は知られていないが、恐らく11世紀半ばであろうと考えられる。7歳で志学し、17歳の頃まで(ライイ、テヘランの前身)で数学天文学・イスラームの宗教諸学の研究を行っていたという。当時レイはファーティマ朝が各地に派遣していたイスマーイール派の宣教師ダーイー( داعي dā‘ī)のイランにおける中心的な拠点であり、ハサンはこのレイでイスマーイール派と接触することとなった。ジュヴァイニーなどの後代の歴史家たちが伝えたハサンの自伝断片によると、アミーラ・ザッラーブという人物からイスマーイール派の教義について感化を受け、イスマーイール派の教主であるファーティマ朝カリフを奉じて忠誠を誓ったという。
この後、1072年に、イスマーイール派のイラーク・アラビー(現在のイラク中南部)とイラーク・アジャミー(現在のイランのザグロス山脈一帯の諸地域)における管区長であったアブドゥル=マリク・イブン・アッターシュからレイでダーイーの資格を認可され、正式にイスマーイール派の信徒になった。この直後、イブン・アッターシュから、カイロへ赴きファーティマ朝カリフの宮廷に出頭してカリフに謁見するよう命じられた。1078年から数年の間、ファーティマ朝の宮廷で研究を行った。エスファハーンに帰還後は、ニザームルムルクを避けてイランで宣教活動を行って成果を得た。1090年、イラン中西部カズヴィーン近傍の要塞、を奪取して拠点とし、のちシャイフル・ジャバル(山の長老)と呼ばれる事となった。また、アラムートを占拠して間もなく1091年から1092年にはホラーサーン南東部のクヒスターン地方(現在のラザヴィー・ホラーサーン州から南ホラーサーン州一帯の地域)にアラムート周辺の改宗運動に功績の有ったダーイー、フサイン・ガーイニーを派遣した。ガーイニーの布教は成功して住民の大部分をニザール派に改宗させることができたようだが、同時に、当時抑圧的な支配で地域住民から恨まれていたセルジューク朝のアミールを排斥しており、これは外来のセルジューク朝政権に対する民衆蜂起的な性格を有していたとも論じられている。ルードバールやクヒスターン一帯など、イラン周辺の山岳地帯の城塞群を中心にニザール派の勢力圏は徐々に拡大して行った。
1094年ファーティマ朝第8代カリフ・の死後、カリフの後継者問題で廃嫡されたを支持し、その代理人を称していわゆるニザール派を形成。主に城砦の奪取や要人の暗殺といった手段でセルジューク朝に抵抗し、その独特の暗殺戦術をして「アサッシン教団(暗殺教団)」と称された。教団はその戦術に加え、絶対的権威に対する服従を説いたタアリーム理論に基づく「新教説」(ダウワ・ジャディーダ دعوة جديدة da‘wa jadīda )によって組織の結束に成功した。また自身も極めて禁欲的な生活を守り、それを犯した息子たちを処刑したという逸話も残されている。1124年5月にランマサル城塞の主に任じられていたを自らの後継者に任命し、さらに伝道局部門にはデフダール・アブー・アリー・アルディスターニーを右に、ハサン・ブン・アーダム・カラーニーを左に、教団の軍事部門の指揮官としてキヤー・バー・ジャアファルを前衛に配するようそれぞれ任命した後、同月の1124年5月23日、アラムート城内で死去した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ハサン・サッバーフ」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Hassan-i Sabbah 」があります。




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