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ジョチ・カサル(Jöči Qasar, 1164年? - 1213年?)は、チンギス・カンの次弟で、モンゴル帝国の皇族である。イェスゲイ・バアトルとコンギラト部族オルクヌウト氏族出身のホエルンとの次男で、他の同母兄弟にはカチウンとテムゲ・オッチギンがいる。『元朝秘史』『元史』などの漢語資料では、拙赤合薩合撒児、槊只合撒児、合撒児、搠只哈撒兒、哈布図哈薩爾〔『清史稿』藩部一、藩部世表一〕など。『集史』などのペルシア語表記では جوچى قسار Jūchī Qasār 。単にカサルともいうが、現代モンゴル語によってハサル(Khasar)と表記される。兄チンギスよりも2歳年少であったと伝わる。 ==生涯== 幼少から兄を補佐して兄弟たちとともにモンゴル帝国創建に貢献した。ナイマン遠征でも中軍(コル Qol)を任されるなど功績をえた。『集史』「タタル部族誌」のエピソードによれば、チンギスがタタル部族で最大の勢力を誇ったトトクリウト・タタル氏族を討伐した時は、チンギスにより積年の怨恨から族滅せよとの厳命が下されていたにも関わらず、ジョチ・カサルはチンギスの第3皇后イェスゲンと第5皇后イェスルン姉妹や自身の妻も同族出身であったこと、さらに自らの妻からの懇願を汲んで、タタル部族の婦女子を密かに助け捕虜として分配され処刑が決まっていた千人の将士のうち虐殺を半数の500人に止め、残りの500人を隠匿した。後日これが発覚してチンギスは激怒したと言う。 しかし、キヤト氏族での主導権を巡って兄チンギスと対立することもあったようで、『元朝秘史』によると1206年のチンギス・カンの第2次即位の後、シャーマン(巫者)ココチュ・テプテングリらコンゴタン氏族の子弟によるクーデター計画に加担したことを咎められ、国政の中枢から遠ざけられたと伝わる。没年については不詳。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジョチ・カサル」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Qasar 」があります。 スポンサード リンク
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