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ハーッジ・ムハンマド・アミーン・アル=フサイニー(hājj Muhammad Amīn al-husaynī, 1895年 - 1974年7月4日)はパレスチナのアラブ人で、汎アラブ主義者。エルサレム大ムフティー、議長、全パレスチナ政府(PLL)大統領、パレスチナ民族評議会議長。 父の、兄のもエルサレムの大ムフティーであった。ハジ・アミン・アル・フセイニと表記されることもある。 == 経歴 == エルサレムの有力な名家・フサイニー家の出身。第一次世界大戦時はオスマン帝国軍に入隊。戦後は、大シリア主義構想の熱烈な支持者となり、現在のシリアの地に建国された大シリアの王ファイサル1世の傍で活躍した。 しかし、サイクス・ピコ協定により中東が英仏の委任統治下に置かれると、フサイニーは「英国委任統治領パレスチナ」政府のアラブ人顧問官の職に就く。 パレスチナがイギリスの委任統治領になると、農奴的生活を嫌い、アラブ人地主(エフェンディ)の小作人(フェラヒン)が新しいユダヤ人の入植地に移住するという事が起こり始めていた。パレスチナのアラブ人は多くが非識字で、わずかな情報にも煽動されやすかったという。 1919年頃から汎アラブ主義運動を展開。「大アラブ構想」を練り、アラビア語新聞に数多く寄稿し、またそれをアラブ人の集まるカフェで読み上げさせた。 1920年、イスラーム教の祝日ネビ・ムーサ祭(モーセ祭;過ぎ越しの祭りと同日)に、祭りを祝おうとしていたエルサレム旧市街のユダヤ教徒を襲撃(:en:1920 Nebi Musa riots)させ、4人を殺害、ダマスカスに逃亡(禁錮10年の判決を受けたが受刑せず)、翌年の43人のユダヤ人虐殺事件を逃亡先から煽動した。 1921年エルサレム・ムフティーの選挙にイギリスの協力と不正によって当選し、1923年最高ムスリム評議会議長を名乗り、1933年、兄であるカーミル・フサイニーの後を継ぐ形でエルサレム大ムフティー〔エルサレムは「イスラームの聖地」の一つであり、聖地のムフティーは他のイスラーム地域のムフティーより上にいるという意味〕に就任。 1929年の嘆きの壁事件、、などのユダヤ人大量虐殺も彼の同様の手口による煽動によるものだった。第5次アリヤーに際しシリアから暴力団を呼び寄せ、ヒトラー政権を逃れてパレスチナに入植したユダヤ人を狙うテロによって、シオニズムに抵抗した。 File:Palestinian delegation 1929.jpg|評議会でのフサイニー (1929年、最前列左から2人目がフサイニー) 画像:Mufti of Jerusalem 1929.jpg|評議会メンバーと (1929年、中央の人物がフサイニー) パレスチナ・アラブ人(のちに「パレスチナ人」とされる)の大部分はユダヤ人との平和な生活を望んでいたにもかかわらず、暴力団によって反フサイニー派のアラブ人を殺害し、フサイニー家のライバルのアラブ人136人を虐殺した(ヘブロン市長、エルサレム元市長を含む)。 1936年にヤッファの9人のユダヤ人虐殺を煽動し、更に「」を3年間にわたり指導。このため、英当局によりベイルートへと追放され、そこからイラクへ移る。1941年にイラクでのによる親枢軸国の反英クーデターが起きるとラシード・アリーを支持・援助するが、イギリス軍が政権打倒のために軍事介入()したことで身の危険を感じイランに亡命。しかし、イランにも英ソ両軍が侵攻したことから、同国の日本大使館に逃げ込んで変装してイタリアに亡命した。 最終的にフサイニーは、ナチス政権下のドイツへ渡り、11月29日にはヒトラーとも会見してヨーロッパからユダヤ人を「殲滅」するよう要求した。ヒトラーからは、中東・北アフリカにおけるユダヤ人一掃とアラブ民族主義勢力に対する支援の確約を得た。 File:Rashid Ali al-Gaylani and Haj Amin al-Husseini at anniversary of the 1941 coup in Iraq.jpg|ラシード・アリーと並ぶフサイニー(1941年) Image:Bundesarchiv Bild 146-1987-004-09A, Amin al Husseini und Adolf Hitler.jpg|ヒトラーと会談するフサイニー(1941年) Image:Bundesarchiv Bild 146-1978-070-04A, Amin al Husseini bei bosnischen SS-Freiwilligen.jpg|第13SS武装山岳師団を閲兵(1943年) この会談の中でフサイニーはこう語った〔NHK取材班(1979) p.68〕。これに対して、ヒトラーの回答はこうだった〔。 また、ベルリンからパレスチナに向けての反ユダヤ主義宣伝放送を続け、アドルフ・アイヒマン親衛隊中佐やアロイス・ブルンナー親衛隊大尉とともにアウシュヴィッツ強制収容所の視察も行った〔ヴィーゼンタール(1998)p.272〕。1942年にはブルガリア政府に対して同国からパレスチナへと逃げるユダヤ難民をドイツ占領下のポーランドに送り返すよう抗議している。またボスニアのムスリムで編成された第13SS武装山岳師団の設立に関与。このSS山岳師団は、バルカン半島におけるユダヤ人狩りを行っている。戦争末期にユダヤ人移送中止の動きがあるとフサイニーはこれに反対し、ユダヤ人移送を強硬に主張し続けた〔ヴィーゼンタール(1998)p.272〕。 1945年、バート・ガスタインでドイツ敗戦を迎えた〔。対独協力者として独国内でフサイニーはイギリス軍に捕らえられ、チトーのユーゴスラビア政府は彼を戦争犯罪人に指定したが、翌年脱獄、カイロに赴く〔。そこでアロイス・ブルンナーと再会したともいわれる〔。ニュルンベルク裁判に出廷することはなかった〔。 1948年の第一次中東戦争にアラブ諸国が敗北した後、ガザに設置された「」の大統領となったが、四ヶ月で崩壊。レバノンに移り、アラブ高級委員会の活動を再開した。1959年以降はベイルートに隠棲した。 デマと煽動による憎悪の喚起やテロ問題などを引き起こしているが、彼の行動はパレスチナ・アラブ人社会内部の問題、個人的な権力闘争の結果とも見ることができる。またシオニストの一部にはパレスチナ難民の発生の責任を彼に帰する見方をする者もいる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アミーン・フサイニー」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Haj Amin al-Husseini 」があります。 スポンサード リンク
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