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ハッソー・フォン・マントイフェル : ミニ英和和英辞書
ハッソー・フォン・マントイフェル[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ハッソー・フォン・マントイフェル ( リダイレクト:ハッソ・フォン・マントイフェル ) : ウィキペディア日本語版
ハッソ・フォン・マントイフェル[ちょうおん]

ハッソ・エッカート・フォン・マントイフェルHasso Eccard von Manteuffel, 1897年1月14日 - 1978年9月24日)は、ドイツ軍人政治家第二次世界大戦では装甲部隊を率い、1944年9月1日に47歳にして装甲兵大将に昇進、アルデンヌ攻勢において7個師団を擁する第5装甲軍を指揮した。
== 経歴 ==

=== 装甲部隊司令官 ===
ポツダムに生まれる。1908年、陸軍士官学校に入学、士官候補生となり第一次世界大戦ユサールとして参加、第3ユサール連隊に配属される。1916年に少尉に任官、鉄十字章を受章。終戦後の1919年に義勇軍(フライコール)「フォン・オーフェン」で副官を務めるが、その年5月に新設の国防軍に採用され,ラーテナウの第25ユサール連隊に配属される。1921年、エヴァルト・フォン・クライストの姪と結婚し、二児をもうける。1920年代前半には、マントイフェルは第3プロイセン山岳連隊に移動、後に副隊長になり、1930年代は馬術競技者として知られていた。1932年10月1日に、フォン・マントイフェルはバンベルクの第17バイエルン山岳連隊に転勤し、騎兵大隊長に任命された。
2年後の1934年10月1日に、彼は山岳連隊「エルフルト」に転勤になった。1935年10月15日には、第2装甲師団(ハインツ・グデーリアン)所属第2オートバイ狙撃兵大隊長に任命された。1936年から1937年まで、彼は第2装甲師団で少佐に昇進し、陸軍士官学校生担当となり、訓練を担当した。1937年2月25日,陸軍総司令部の戦車担当部門に所属し、1939年2月1日にはベルリンのクランプニッツ装甲兵学校の教官になった。彼は、1941年まで教官をしていたので、ポーランド戦、フランス戦には参加していない。
第二次世界大戦の勃発とともに中佐に昇進、1941年に始まった独ソ戦では第7装甲師団第7狙撃兵連隊第1大隊長を務める。10月には大佐に昇進し、マントイフェルの部隊はモスクワに迫った。「マントイフェル兵団」はモスクワから50kmの位置にまで進出したが、攻略はならなかった。戦略的に重要な橋を奪った功により、12月31日に騎士鉄十字章を受章。1942年5月、部隊は再編成のためにフランスへ送られたが、その再編成の最中の7月、第7装甲師団第7狙撃兵旅団長と昇進する。
同年冬、急遽師団長としてドイツ・アフリカ軍団に転属となり、チュニジアに赴き2月5日、ロンメル元帥率いるドイツアフリカ軍団所属第5装甲軍(ハンス=ユルゲン・フォン・アルニム上級大将)配下のフォン・マントイフェル師団の司令官に任命された。1943年5月、少将に昇進するが、連合軍がトーチ作戦を発動させた後のチュニジア攻防戦に師団は参加した。激しい戦いの真中の3月31日、彼は極度の疲労から倒れ、療養のためにドイツへ戻った。回復後の1943年8月22日、東部戦線にある第7装甲師団に師団長として復帰する。8月26日にソ連の空襲で背中を負傷するにもかかわらず、彼はウクライナで戦うために残った。ハリコフのドニエプル川沿いでの激しい戦いの後、彼は赤軍の攻撃を停止させることに成功した。11月後半に、ジトミル北部で包囲されている第8装甲師団を救出する作戦を行い、ジトミルを占領することに成功した。その戦功から1944年2月1日に中将に昇進し、装甲擲弾兵師団「グロースドイチュラント」の師団長となる。
1944年9月1日、装甲兵大将に昇進し、同月西部戦線の第5装甲軍司令官に任命される。1944年12月16日に始まるアルデンヌ攻勢に参加。作戦は失敗に終わったが、ジョージ・パットン率いるアメリカ軍の反撃をかわし、殲滅を免れた。
1945年3月に東部戦線で第3装甲軍司令官に任命され、再び赤軍との戦いに従軍するが、その圧倒的な物量の前にエルベ川まで後退を余儀なくされた。この際に、直属の上司であるヴァイクセル軍集団司令官ゴットハルト・ハインリツィ上級大将が解任され、後任に指名されるが、もはや抵抗は将兵の命を無駄にするだけと悟ったマントイフェルは就任を拒絶。「今後、第3装甲軍戦区の一切の命令はマントイフェルからのみ出される」と宣言し、事実上、最高司令部に反旗を翻す。そして、イギリス軍の将軍との交渉の後、1945年5月に30万の将兵とともにソ連軍ではなくイギリス軍に降伏して捕虜となった。さまざまな捕虜収容所を転々とした後、アメリカ軍に引き渡された。1947年に釈放される。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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