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ハツシバオーは日本の競走馬。南関東公営競馬で史上3頭目の「三冠」を達成した馬で、タケシバオーの代表産駒である。 ※馬齢は旧表記(数え年)にて統一する。 == 来歴 == ハツシバオーは当歳時から「骨量のある大柄」の馬と評判になった。しかし左右で爪の形が異なることなどから、その評価は体格の成長とともに尻つぼみとなってしまう。しかしカツラギエースやクライムカイザーを発掘したことでも知られる馬商の佐藤伝二はこの馬の能力を高く評価し、彼が仲介役となって佐久間有寿が400万円で購入、大井競馬場の大山末治厩舎に入厩することとなった。 3歳の7月にデビューしたハツシバオーは山口勲を鞍上に迎えデビュー。新馬戦は快勝したが2,3戦目は惜敗。4戦目からは宮浦正行が騎乗することとなり、大井では以降全てのレースに騎乗した。するとここから4連勝し、3歳時は7戦5勝で終えた。 ハツシバオーの連勝は4歳に入っても続き、2戦2勝した後に3ヶ月休養。ぶっつけで臨んだ羽田盃は好位からレースを進め、黒潮盃勝ちのタイガームサシに2馬身差を着けて優勝。さらに東京ダービーでは好スタートを切るとそのまま逃げ切り、2着タイガームサシに6馬身差で圧勝。1975年のゴールデンリボー以来となる「南関東三冠」への期待が膨らんでいった。 秋初戦は初の古馬との対戦となる東京盃。しかし他馬に挟まれる不利もありトドロキヒリュウの3着に終わり、連勝は「7」でストップ。しかし次走の東京記念ではそのトドロキヒリュウに雪辱する形で勝利。そして三冠最終戦となる東京王冠賞は他馬がハツシバオーの強さに恐れをなしたのか、わずか8頭立てで行なわれた。レースはタイガームサシが向正面で逸走するハプニングがあったものの、東京ダービーと同じく逃げたハツシバオーはこれに巻き込まれることなく2着のトドロキヒリュウに5馬身差の快勝。史上3頭目の「南関東三冠馬」となった。 さらに年末の東京大賞典ではヒカルタカイ、ゴールデンリボーの2頭の三冠馬さえ成し遂げられなかった「四冠」に挑むことなり、9頭立てながら古馬たちを抑え堂々の1番人気に。しかしハツシバオーはここでも強さを見せ2着のエドノボルに2馬身2分の1の差をつけ見事「四冠」を達成。鞍上の宮浦はレース後「これまでにない強さを感じた」と舌を巻いた。 5歳時のハツシバオーは帝王賞を目標に据え、まず63キログラムの重いハンデを課された2月の金盃に臨むが落馬で競走中止、本番の帝王賞も調整不足が祟ったのかハツマモルの2着に終わった。 帝王賞のあと、ハツシバオーは中央競馬に移籍することとなり、美浦トレーニングセンターの高橋英夫厩舎に移った。中央では秋の天皇賞を目指したが福島競馬場での調整中に浅屈腱炎を発症し出走はかなわなかった。だが陣営は諦めることなく、年末の有馬記念に推薦で出走することとなったがグリーングラスの13着に終わる。結局これが引退レースとなった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ハツシバオー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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