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ハドソン湾遠征 : ミニ英和和英辞書
ハドソン湾遠征[はどそんわんえんせい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [わん]
  1. (n,n-suf) bay 2. gulf 3. inlet 
: [とお]
  1. (adj-no) distant 
遠征 : [えんせい]
  1. (n,vs) (1) expedition 2. campaign 3. (performer's) tour 4. (2) away series (baseball) 

ハドソン湾遠征 : ウィキペディア日本語版
ハドソン湾遠征[はどそんわんえんせい]

ハドソン湾遠征 (ハドソンわんえんせい、)は、アメリカ独立戦争最終盤の1782年に、ラ・ペルーズ伯爵の率いるフランス海軍戦隊がハドソン湾岸にあったハドソン湾会社毛皮交易基地や砦を襲撃した一連の行動である。カプ・フランセ(ハイチ)を出港したこの遠征はフランスイギリスの間の世界規模に広がった海軍戦争の一部となった。
ラ・ペルーズ伯爵は、フランスの海軍大臣カストリーズ侯爵からの秘密の命令で行動し、1782年5月にカプ・フランセを出港し、8月初旬にプリンス・オブ・ウェールズ砦の前に到着した。この砦とヨーク・ファクトリーのどちらも戦うことなく降伏したが、ヨーク・ファクトリーに保管されていた毛皮の幾らかは、フランス戦隊から巧みに逃れたハドソン湾会社の商船によって運び去られた。
イギリス人捕虜の多くはスループ船に乗せられ、イングランドに送り返された。ラ・ペルーズ伯爵戦隊は機密を守るために最小の冬の備えで航海して来ていたので、乗組員の多くがその苦難の故に壊血病などの病気を患った。ハドソン湾会社の財政はこの襲撃で悪化し、それが会社と取引をしていたインディアンの人口を減らす要因にもなった。
== 背景 ==
フランス海軍の大佐であるラ・ペルーズ伯爵は1780年遅くにフランスを訪れている間に、ハドソン湾会社の毛皮交易基地に対する遠征のアイディアを先ず、フランス港湾大臣のシャルル・ピエール・クラレット・ド・フルリューに提案した〔Dunmore, pp. 130,133〕。海軍大臣カストリーズ侯爵と国王ルイ16世がこの計画を承認し、カストリーズは、そのような遠征が現実のものとなったときに、ラ・ペルーズが仕えている艦隊司令官の誰にも優先できるような秘密命令を発した。その案は隠密裡に小さな艦隊を編成し、フランスの船舶が入ることのできる北アメリカ大陸の最北の港、ロードアイランドニューポートもしくはマサチューセッツボストンからできるだけ速やかに北のハドソン湾にむかうことだった〔Dunmore, p. 134〕。
1781年の作戦シーズンでラ・ペルーズの任務はその秘密命令を実行できる機会が取れなかったが、1782年4月のセインツの海戦でフランス海軍が大敗した後にその機会が訪れた〔Dunmore, pp. 134–148〕。フランスとスペインジャマイカに対する攻撃を計画していたが、セインツの海戦ではド・グラス伯爵とその旗艦''ヴィル・ド・パリ''が捕まったことなどを含め損失が大きく、その遠征を中止することになった〔Dunmore, p. 148〕。ラ・ペルーズは海戦後にカプ・フランセに戻ると、ド・グラスの後継者ルイ=フィリップ・ド・ヴォードレイユにそのアイディアを上申した。ヴォードレイユがその作戦を承認し、ラ・ペルーズに3隻の艦艇を与えた。すなわち、戦列艦の''セプター''(大砲74門)、フリゲート艦の''アストレー''(大砲38門)と''アンガジュアン''(大砲34門)だった。''アストレー''はポール・アントワーヌ・フルリオー・ド・ラングルが、''アンガジュアン''はアンドレ・シャルル・ド・ラ・ジェイルが指揮した〔Dunmore, p. 149〕。
フランスは極北では行動できるシーズンが短いことを知っていたので、遠征の準備は秘密に、また幾分急いで行われた。乗組員と士官達には目的地が知らされず、ラ・ペルーズはあらゆる疑念を避けようとして、耐寒用衣類の携行も避けた。ヴォードレイユ提督の報告書には艦隊の目的地をフランス、寄港地をニューポートもしくはボストンと記しており、ラングルとラ・ジェイルはノバスコシアの緯度に達したときに初めて開封できる封印された命令書が渡された〔Dunmore, p. 152〕。この艦隊にはオーゼロワ連隊の正規歩兵250名、砲兵40名、野砲4門および迫撃砲2門を乗せていた〔〔。兵士達はニューポートのフランス陸軍を補充しに行くのだと告げられていた。2週間の準備を行った後、艦隊は1782年5月31日にカプ・フランセを出港した〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ハドソン湾遠征」の詳細全文を読む




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