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ハナ肇とキューバン・キャッツ : ミニ英和和英辞書
ハナ肇とキューバン・キャッツ[はなはじめときゅーばんきゃっつ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ハナ肇とキューバン・キャッツ : ウィキペディア日本語版
ハナ肇とキューバン・キャッツ[はなはじめときゅーばんきゃっつ]
ハナ肇とキューバン・キャッツ(ハナはじめとキューバンキャッツ)は、日本のコミックバンドである。ハナ・ハジメとキューバンキャッツとも表記されていた〔NHKアーカイブス 番組表検索結果 〕。当時誕生したばかりの渡辺プロダクションに所属。ハナ肇により結成され、ハナ肇とクレージーキャッツの前身となった。
==概要==
1954年当時、浜口庫之助は「浜口庫之助とアフロキューバノ」など子飼いのバンドを4つほど率いており、そのバンドの一つ(「浜口庫之助とアフロキューバノ」のジュニア〔山下勝利『ハナ肇とクレージーキャッツ物語』p.39〕)でドラマーとして活動していたのがハナ肇だった〔戸井十月『植木等伝「わかっちゃいるけど、やめられない!」』p.90〕。同年12月末、浜口から「今月いっぱいでこのバンドは解散する」と一方的に通告されて反撥したハナは、1955年4月1日、浜口に対する仕返しの意味でバンド名をアフロキューバノから盗用し、自らのバンドを結成した〔。ハナ肇とキューバン・キャッツというバンド名は、新宿のお好み焼き屋「どんどん亭」でハナ自らが決めた〔山下勝利『ハナ肇とクレージーキャッツ物語』p.44〕〔戸井十月『植木等伝「わかっちゃいるけど、やめられない!」』p.89〕。そのとき同席していたのは渡辺プロダクションの渡辺晋・渡辺美佐夫妻であり、晋は「同じバンドでも、これまでにないものをやってみよう。お前(ハナのこと)、おかしいんだからモダンジャズなんかやるな。ドラムだってそんなにうまくないんだから、お前のキャラクターを生かして変わったことをやったらどうだい、といってできたのがクレージーの前身、キューバン・キャッツ」〔山下勝利『ハナ肇とクレージーキャッツ物語』p.191-192〕と語っている。このときハナの念頭にあったのは脱線トリオのメンバー構成であった〔。
渡辺プロダクション社長の渡辺晋谷啓植木等(いずれも当時フランキー堺とシティ・スリッカーズに在籍していた)に声をかけたのは、キューバン・キャッツのレベルアップを図ってのことであったが、シティ・スリッカーズの所属プロダクションの社長から「お前ら、ここを辞めてハナのところへ行くのか。もしそんなことしたら、どこに行っても飯が食えないようにしてやる」と脅されて震え上がった植木はキューバン・キャッツへの移籍を躊躇した〔戸井十月『植木等伝「わかっちゃいるけど、やめられない!」』p.92-93〕〔山下勝利は、このとき二人を恫喝したのはマネージャーの奥田喜久丸だったとしている。『ハナ肇とクレージーキャッツ物語』p.56。〕。一方、谷啓は「あんな奴の言う通りには、もうならない。俺は、明日から来ない」と宣言し、1956年2月1日〔山下、p.58。〕、シティ・スリッカーズから脱退してキューバン・キャッツに加わった〔戸井十月『植木等伝「わかっちゃいるけど、やめられない!」』p.93〕。結局、植木の移籍が実現したのは1957年3月1日〔のことであったが、その頃は既にキューバン・キャッツという名前ではなくなっており、「僕が入った時は、もう"クレージー"だったからね」と植木は語っている〔戸井十月『植木等伝「わかっちゃいるけど、やめられない!」』p.93〕。
クレージーキャッツと改名した時期について小林信彦は「1957年3月から6月の間」としているが、渡辺プロダクションの資料では「1955年」となっており、正確な時期についてはハナ肇も把握していなかった〔戸井十月『植木等伝「わかっちゃいるけど、やめられない!」』p.93〕。山下勝利は「こうして昭和30年4月1日に『ハナ肇とキューバン・キャッツ』はスタートしたのである。クレージー・キャッツと改称するのは、3ヵ月ほど後のことだ」〔山下勝利『ハナ肇とクレージーキャッツ物語』p.45〕と記しており、軍司貞則もクレージーキャッツへの改名を1955年7月としているが〔軍司貞則『ナベプロ帝国の興亡』p.118〕、NHKアーカイブスの番組表検索では、1956年2月7日NHK『ボンゴのひびき』に「ハナ・ハジメとキューバンキャッツ」名義で出演していたことが確認できる〔。
国家公務員の初任給が1万5483円の時代、渡辺プロダクションはキューバン・キャッツのメンバーに月給30万円を保証していた〔軍司貞則『ナベプロ帝国の興亡』p.119〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ハナ肇とキューバン・キャッツ」の詳細全文を読む




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