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ハプスブルク君主国(ハプスブルクくんしゅこく、)は、神聖ローマ帝国を構成する領邦国家のうち、特にオーストリア系ハプスブルク家(のちハプスブルク=ロートリンゲン家)が君主として統治したもの。「帝国」ではない時代もあるが、歴史学上、ハプスブルク帝国()とも呼ばれる〔大津留厚「ハプスブルク帝国」世界民族問題事典、平凡社、2002年〕。 成立年はハプスブルク家がオーストリア大公国に加えてハンガリー王国、ボヘミア王国(ボヘミア王冠領)を獲得した1526年とされる。1804年までは公式の名称を持っていなかったが、同時代の人々ですらこれを事実上の国家として認識し、オーストリアと呼称していた。1804年から1867年まではオーストリア帝国、1867年から1918年まではオーストリア=ハンガリー帝国を総称とした。 == 歴史と特色 == === 神聖ローマ帝国 === ハプスブルク家は13世紀のルドルフ1世以降、神聖ローマ帝国内の一領邦として、現在のオーストリアとスロベニアを中心とした地域を所領としていた。オーストリアは帝国の辺境伯領の一部で、オーストリア公国(オストマルク)をなしていたが、建設公ルドルフ4世は「大公」を自称し、後に神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世が帝国法で正式に定めてオーストリア大公国が出現した。以降、帝国におけるオーストリアの地位は格段に上昇した。 1526年、ハンガリー王ラヨシュ2世がモハーチの戦いで戦死すると、皇帝カール5世の弟、オーストリア大公フェルディナント(後の皇帝フェルディナント1世)がハンガリーとボヘミアの王位を継承することになった。ハンガリーは帝国の領域外にあり、ハプスブルク家は皇帝としてではなく、あくまでハンガリー王としての資格で統治下に置いた。一方、ハプスブルク家は神聖ローマ皇帝位を事実上世襲し、形式上は現在のドイツを中心とする帝国の領域の君主であったが、実質的にその統治はハプスブルク家の所領の外には及んでいなかった。ハプスブルク家の統治が及んでいた帝国内外の領域は、全体としては公式の名称を持っていなかったが、事実上は1つの国家として機能していた。同時代の人々もこれを国家として認識し、オーストリアと呼称していた。 ハプスブルク君主国の領域は、多様な地域、多様な民族にわたっていたため、単一の国家として統治することは極めて困難であった。17世紀までは各地域にハプスブルク家の一族が配され、それぞれがあたかも自己の所領として統治を行っていた。18世紀半ばのマリア・テレジアの時代以降、中央集権化が進められたが、ヨーゼフ2世の急進的な改革は抵抗に阻まれることになった。メッテルニヒの時代にはより漸進的な改革が進められた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ハプスブルク君主国」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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