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浜田 幸一(はまだ こういち、1928年(昭和3年)9月5日 - 2012年(平成24年)8月5日)は、日本の政治家、タレント。株式会社YAMATO名誉顧問〔名誉顧問になった だう!|浜田幸一オフィシャルブログ「このままじゃいかんのだよ!!」 〕。 自由民主党の衆議院議員として通算7回の当選に及び、衆議院予算委員長、自由民主党広報委員長、自由民主党副幹事長などを歴任したが、閣僚経験は得られないまま1993年(平成5年)に政界を引退した。 「ハマコー」の愛称で知られ、また、「国会の暴れん坊」「政界の暴れん坊」の異名をもつ。政界引退後は「政治活動家」と自称していたほか、テレビ番組 『ビートたけしのTVタックル』(テレビ朝日)では、「悪党党幹事長」を名乗っていた。 == 来歴・人物 == === 少年期 === 千葉県君津郡青堀町(現・富津市)出身。実家は大地主で、父・甚三郎は町助役を務めるほどの名士だったにもかかわらず、大政翼賛会の役員でもあったこともあって戦後、戦犯者に指定され公職追放〔『ハマコーだう!ツイッターの言葉力』154ページ〕、その後博打にのめり込み破産。母が引くリヤカーの後押しをしながら、幸一少年は「負けてたまるか、負けて。父が失ったものを、自分一代で取り返してみせる」と強く決心したという〔 グレートマザー物語 〕。 1941年(昭和16年)に月謝免除の特待生として旧制千葉県立木更津中学校(現:千葉県立木更津高等学校)に入学。ちょうど大東亜戦争が勃発した時期であったことから、2年に上がった頃から学徒動員で板金工として第2海軍航空廠に奉職し、飛行機の翼を作るなどしていた〔『永田町、あのときの話―ハマコーの直情と涙の政界史』 P.86-87 〔ISBN 406256033x〕〕。 中学3年のときに土浦海軍航空隊に赴き、海軍飛行予科練習生の試験を受けるも、年齢的にまだ早いとのことで不合格となった。このことについて、「もし合格していたら戦後まで生きてはいなかっただろう」と回想している〔『永田町、あのときの話―ハマコーの直情と涙の政界史』 P.88-89 〔ISBN 406256033x〕〕。 1945年(昭和20年)には朝鮮出身の同級生とともに学校推薦で9月1日付で南満州鉄道に入ることが決まったものの、出発直前に終戦となって立ち消え、動員先の第2海軍航空廠で玉音放送を聴いた。ちょうどこの頃に兄が戦病死〔『永田町、あのときの話―ハマコーの直情と涙の政界史』 P.90,92 〔ISBN 406256033x〕〕。 それから日本大学農獣医学部拓植学科(現:生物資源科学部国際地域開発学科)に入学したが、翌1946年(昭和21年)まで芸者遊びや喧嘩に明け暮れる日々を送った〔『永田町、あのときの話―ハマコーの直情と涙の政界史』 P.95 〔ISBN 406256033x〕〕。しかし、本人曰く「合格した確かな記憶が無く、籍があったかどうかも不確かだった。学歴詐称を疑われる恐れもあったので、大学の同窓会の誘いも丁重にお断りしていた」と言う。ただ、大学生時代に応援団の活動はしていた。東京の高田馬場に下宿していた当時、いつも連れ立っていた同郷の先輩に早稲田大学の学生が居たことから、早大に自然と出入りするようにもなり、早大の応援団に交じって東京六大学の応援活動をしていた〔『予言集』183-185ページ〕。 青年団活動を行っており、竹下登や野中広務と知り合う〔魚住昭『野中広務 差別と権力』講談社〕。君津郡連合青年団長、千葉県連合青年団長、日本青年団協議会顧問を務めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「浜田幸一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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