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ハミルトン・リカルド・クエスタ(Hamilton Ricard Cuesta, 1974年1月1日 - )は、コロンビア・チョコ県・出身の同国代表のサッカー選手。 == 経歴 == 1998年に移籍金200万ポンドでブライアン・ロブソン率いるミドルズブラFCに加入した。在籍4年間でスタメン92試合(途中出場23試合)33得点を決め、そのうち2度チーム内得点王になり、1999年にはチームの最優秀選手に選ばれた。しかし、監督がスティーヴ・マクラーレンに交代すると、余剰戦力とみられPFC CSKAソフィアにフリーで放出された。 イングランドプレミアリーグで通算31得点の実績を引っさげ、2003年に湘南ベルマーレに加入。J1復帰へのエースとして期待されたが、12試合2得点と全くの期待外れに終わった。湘南時代に挙げた2ゴールは、いずれも2003年4月9日の対サガン鳥栖戦にて記録したものだが、1点目は、相手選手(ジーコの長男ジュニオール)の緩慢なバックパスを奪ってそのまま決めたものだった。 2004年のグアヤキルをホームとするCSエメレクでプレーしている時に、審判を攻撃し、さらに観客に対し不謹慎なジェスチャーをしたことにより12ヶ月の出場禁止を言い渡されたが、控訴したことにより期間は短縮された〔Bad boy Ricard on trial with Shanghai 〕。以降は、キャリアを再び輝かせるために欧州へと移籍しようと考え、キプロスのAPOELニコシアへ加入。2005-06シーズンに、CDヌマンシアと1年契約を結び16試合2得点を記録した。 2007年1月24日、リカルドは2002年に起こした車の事故に関して、コロンビアの裁判所に懲役3年を言い渡された。弁護士は控訴の可能性があるとし、まだ刑は執行されていない〔Former Columbia striker Ricard facing jail 〕〔Ricard of the Riverside jailed for three years after fatal crash 〕。 その後、ウルグアイのダヌービオFCでは11得点を挙げ、2006-07シーズンのリーグ優勝に貢献した。2007年6月、中国サッカー・スーパーリーグの上海申花足球倶楽部と契約を結んだ〔。上海申花では、A3チャンピオンズカップ2007で3試合2得点と素晴らしいパフォーマンスを見せ、中国のクラブとして初のA3チャンピオンズカップ優勝に大きく貢献した。一方リーグ戦では、6月21日の出場2試合目の天津泰達足球倶楽部戦、2-2で引き分けている中で決勝ゴールを決めた。翌2008年は、34歳という年齢ながら29試合に出場しチームトップの得点を挙げるも、シーズン終了後に35歳に達するという高齢のため放出された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ハミルトン・リカルド」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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