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ハラチン
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ハラチン
ハラチン(、 転写:qaračin、中国語:喀喇沁 Kālǎqìn、英語:Kharchin)は、15世紀前期に形成されたモンゴルの一部族。モンゴル帝国初期にモンケ・ハーンらによって連れてこられたキプチャク人を祖とする集団で、北元時代以後に独立した遊牧部族となった〔岡田 2010,307頁〕。リンダン・ハーンの西遷によって一時解体されたが、清朝の下で朶顔衛を中核に再編成され、ジョソト盟ハラチン右翼旗・左翼旗・中旗として存続した。 ==歴史==
=== 大元ウルス時代 === モンゴル帝国第四代大ハーン、モンケはバトゥの征西に従軍した際、キプチャク草原に居住するアス人やキプチャク人を連れ帰り、前者を灤河に、後者をラオハ河に遊牧させた。移住したキプチャク人は良質な馬乳酒を産出することから「ハラチ(哈剌赤)」と呼ばれ、これが「ハラチン部」の語源となった〔和田1959,337頁〕。キプチャク人、アスト人は新参者であるが故にモンゴル人同士の内戦では躊躇なく戦うことができ、ナヤンの乱、カイドゥの乱といった戦役で功績を挙げた〔杉山1996,157-158頁〕。成宗テムルが亡くなり、カイドゥの侵攻に対する指揮官としてキプチャク、アスト、カンクリといった軍事集団を率いていた武宗カイシャンが即位すると、これらの集団は引き立てられ、以後政治に介入するようにもなった。泰定帝イェスン・テムルの死後にはキプチャク人集団の長エル・テムルがトク・テムルを擁立して天順帝アリギバを擁する上都派を撃ち破り、帝国最大の勢力となった。しかし、エル・テムルが病死するとメルキト部のバヤンに実権を奪われ、勢力を衰えさせた。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ハラチン」の詳細全文を読む
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