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ハリー・ハウエル・カーネイ(Harry Howell Carney:1910年4月1日~1974年10月8日)はアメリカ合衆国のジャズ・ミュージシャン。 彼のバリトン・サックスにおける名人芸は後進の世代に影響を与えた。 初期にはアルトサックス、クラリネット、バス・クラリネットも演奏した。 主にデューク・エリントン楽団での45年間の活動で知られ、力強く安定したサックスはエリントン音楽のかなめであった。 == 生涯 == 1910年マサチューセッツ州ボストン生まれ。6歳でピアノ、13歳でクラリネット、14歳でアルト・サックスを学んだ。4歳年上のジョニー・ホッジスと幼馴染で、初期に影響を受けた。他にクラリネット奏者のバスター・ベイリー(Buster Bailey)・ドン・マレイ(Don Murray)、サックスのコールマン・ホーキンス、エイドリアン・ロリーニに影響を受けた。 17歳でニューヨークで多くのギグをこなし、1927年ボストンでエリントンに雇われた。オットー・ハードウィックがバリトン・サックスを担当している間、クラリネットの他にアルト、ソプラノ・サックスを担当した。 初期にはクラリネットでRudy Jacksonと、アルト、ソプラノ・サックスでハードウィックと比較された。一例はカーネイがアルト、ソプラノを、ハードウィックがバリトンの『Blue Bubbles』(1927)。ハードウィックがバリトン・サックスでパッとしなかったので、カーネイは目ざとくバリトンサックスを購入し、すぐに上達したのでバリトンの花形プレーヤーとなった。 Otto Hardwickが1928年にエリントン楽団を去りヨーロッパに行くと、カーネイはリード・アルトに、ジョニーホッジスはアルト、ソプラノ・サックスで主要プレーヤーになった。カーネイは『Hot Feet』ではめずらしくテナー・サックスを吹いている。楽器はバーニー・ビガードから借りた。1928年から1942年まではビガードが花形クラリネット奏者だったが、たまにカーネイがクラリネット・ソロを取ることもあった。『Bugle Call Rag』『Rexatious (with Rex Stewart)』『Creole Love Call』(1932)『I Don't Know What Kind of Blues I've Got』『It's Like Reaching For The Moon (with Teddy Wilson and Billie Holiday)』などがそうである。アルト・クラリネットを『Saddest Tale』で、バスクラリネットを『Blue Light』(1938)で吹いている。 1943年(33歳)、バス・クラリネットに本腰を入れ、同楽器のパイオニアの一人になった。1932年にOtto Hardwickが戻るとアルトサックスでの演奏の機会は減った。ただ、Rex Stewartとの1940年のセッションでは『Linger Awhile』『My Sunday Gal』でアルトを担当した。1943年の小品『Symphony in Swing』でもアルトを担当したが、そのあとアルトをやめてしまった。Mercer Ellingtonは自伝でこのことを残念がっている。彼の音色がサックス・セクションを完全なものにしていたのに、と。 キャリアの後半において彼はバリトン・サックスに専念した。バスクラリネットやクラリネットもたまに演奏したが。1940年代には『Mood Indigo』『Creole Love Call』『Sugar Hill Penthouse』『The Mooche』『Rockin' In Rhythm』 などでクラリネット・ソロを取っている。その後はRussell Procopeのニューオリンズ・スタイルのクラリネットに取って代わられた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ハリー・カーネイ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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