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ハリー・ギャラディン(Harry J. Gallatin, 1927年4月26日 - 2015年10月7日)は、アメリカ合衆国イリノイ州ロクサーナ出身の元バスケットボール選手。出身大学はトルーマン州立大学。1950年代、NBAのニューヨーク・ニックスで活躍し、1991年には殿堂入りを果たした。引退後は指導者に転向し、初代最優秀コーチ賞に選ばれている。 ==選手キャリア== ロクサーナ高校卒業後、第二次世界大戦終結まで兵役に就いていたギャラディンは、除隊後トルーマン州立大学に進学し、2年間のプレイで平均13.2得点、フィールドゴール成功率70.3%という成績を残した。1948年のBAAドラフトでニューヨーク・ニックスから指名を受け、BAA(NBAの前身)入りを果たす。 ギャラティンは1年目から即戦力として活躍し、2年目の1949-50シーズンには早くもオールスターに選ばれた。翌1950-51シーズンには12.8得点12.1リバウンド(リーグ3位)、FG成功率41.6%(リーグ5位)を記録するリーグを代表するセンターに成長する。このシーズンにはエースのカール・ブラウンがチームを去ってしまうが、新たにスコアラーのマックス・ザスロフスキーが加入し、フォワードのヴィンス・ボリーラ、司令塔のディック・マグワイア、ザフロスキー、そしてギャラディンを中心としたニックスはプレーオフを勝ち抜いてファイナルに進出。ロチェスター・ロイヤルズと激戦を繰り広げるが、3勝4敗の末に惜しくも敗れた。ニックスはこのシーズンを皮切りに3年連続ファイナルに進出するチーム最初の黄金期を迎えるが、しかしミネアポリス・レイカーズの全盛期と重なってしまい、続く2年のファイナルは共にレイカーズの前に敗退し、優勝の夢は叶わなかった。 NBA6シーズン目を迎えた1953-54シーズンにギャラティンは全盛期を迎え、13.2得点15.3リバウンドの成績を記録し、初のリバウンド王とオールNBA1stチームに選ばれた。チームもカール・ブラウンがニックスに復帰し、リーグ2位タイの44勝を記録するが、プレーオフではこのシーズンのみに導入されたプレーオフ出場チームによるリーグ戦で4戦全敗を喫してしまい、4年連続ファイナル進出はならなかった。以後もギャラティンは毎年ダブル・ダブルのアベレージを叩き出すリーグ有数のセンターとして活躍するが、チームは優勝が叶わぬまま衰退期を迎えてしまい、ギャラティンは1956-57シーズンを最後に9シーズン過ごしたニックスを去ることになった。 デトロイト・ピストンズで新シーズンを迎えたギャラティンは新天地でも14.9得点10.4リバウンドの好成績を維持していたが、30歳を迎えたこのシーズンを最後に、現役から引退した。 BAA/NBA通算成績は682試合の出場で8843得点6684リバウンド、平均13.0得点11.9リバウンドだった(リバウンド数は1950-51シーズンからの計測)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ハリー・ギャラティン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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