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ハリー・グリッケン : ミニ英和和英辞書
ハリー・グリッケン[はりー]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ハリー : [はりー]
 【名詞】 1. Harry 2. (n) Harry
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ハリー・グリッケン : ウィキペディア日本語版
ハリー・グリッケン[はりー]

ハリー・グリッケン(、1958年 - 1991年6月3日)は、アメリカ合衆国火山学者である。アメリカ合衆国ワシントン州セント・ヘレンズ山が1980年に起こして有名になった大噴火の前後で、同山の研究を行った。このときグリッケンが面接に応じるために、同僚の火山学者デイヴィッド・ジョンストンと観測当番を入れ替わり、ジョンストンが噴火が原因で亡くなったことで、グリッケンは自分を責めた。1991年、日本雲仙岳溶岩ドームの崩壊を研究している時におきた火砕流に巻き込まれ、同僚の火山学者クラフト夫妻(カティアとモーリス)他と共に死亡した。その遺骸は4日後に発見され、その両親の要請で火葬に付された。ジョンストンとグリッケンは火山の噴火で死亡した2人しかいないアメリカ人火山学者である。
グリッケンは長い間アメリカ地質調査所のために働くことに興味を抱いていたが、そこの従業員がグリッケンを変わり者と見ていたために、そこで恒久的な職を得ることはなかった。アメリカ国立科学財団などの団体から認められた助成金で独立した研究を行い、火山の岩屑なだれの分野での専門家になった。「ワシントン州セント・ヘレンズ山の1980年5月18日の岩盤すべり屑なだれ」と題した、セント・ヘレンズ山に関する研究に基づいた博士論文など、この主題に関する著作を幾つか書き、それが岩屑なだれに対する興味を広めさせた。その報告書はグリッケンの死後の1996年に、グリッケンの同僚によって出版されて以来、岩屑なだれに関する他の多くの出版物によって認められてきた。グリッケンはその死後に、火山に対するその愛と、その分野への研究に没頭したことを学界から称賛されている。
== 生涯と経歴 ==

=== 初期の仕事 ===

ハリー・グリッケンは1958年に生まれた。父はミルトン・グリッケン、母はアイダだった。1980年にスタンフォード大学を卒業した。その年の後半、カリフォルニア大学サンタバーバラ校の大学院生であるときに、一時的にアメリカ地質調査所に雇われ、ワシントン州の火山セント・ヘレンズ山観測の手助けを行った。1840年代ないし1850年代から休眠していたセント・ヘレンズ山は1980年3月に活動を再開していた。
地震と火山活動が増加するに連れて、アメリカ地質調査所のバンクーバー支所で働く火山学者は、差し迫っている噴火を観測する準備をしていた。地質学者のドン・スワンソン達は、成長する溶岩ドームとその周辺に反射器を置き〔Parchman, pgs. 108–109.〕、1980年5月1日には〔、コールドウォーターIとIIの観測基地を設立し、ドームが変形すると、光波測距儀を用いて反射器までの距離が如何に変化するかを測定していた。グリッケンは火山を2週間観測し、火山から北西に5マイル (8 km) 強の位置に置いたコールドウォーターIIのトレイラーで寝泊まりしていた。1980年5月18日、グリッケンは6日間連続で働いた後〔、カリフォルニア州マンモスで指導教授のリチャード・V・フィッシャーから卒業研究に関する面接を受けるために休暇を取った〔Fisher, pgs. 90–92.〕。グリッケンの研究の助言者で指導者でもあった〔Thompson, pg. 111.〕デイヴィッド・ジョンストンがその観測任務に就いた〔。ただし、火山の中で移動性のマグマの兆候があり、そこの安全性について心配が表明されていた〔。山の北斜面直下でマグニチュード5.1の地震が起きた後、午前8時32分に火山の一部が滑落し始め〔Harris, pg. 205.〕、セント・ヘレンズ山が噴火した。山の斜面を超音速に近い速度で滑り降りた火砕流に巻き込まれたジョンストンが死んだ。
噴火後、グリッケンは救助活動の中心となったトゥートル高校に行き、アメリカ空軍予備役救援大隊と合流してヘリコプターでジョンストンを、あるいはその基地の印を探した〔。6時間近くに渡って3組の乗員と共に捜索したが、何の痕跡も見つけられなかった〔Thompson, pg. 112.〕。グリッケンは4組目のヘリコプター乗員に捜索を助けてくれるよう依頼したが、危険な状態であることを恐れて彼らは辞退した〔Parchman, pg. 46.〕。グリッケンは取り乱しており、ジョンストンの死を受け入れようとはしなかったので、スワンソンに慰められてやっと沈静化することになった〔。
1980年の半ば、5月の噴火後、アメリカ地質調査所の科学者がバンクーバーにデイヴィッド・A・ジョンストン・カスケード火山観測所を建設することを決め〔Thompson, pgs. 141–42.〕、オレゴン州、ワシントン州、アイダホ州で密に火山を観測することを目指した。グリッケンはセント・ヘレンズ山に戻って、火山の側面噴火の名残を分析した。しかし、他の観測所の職員は既に山での研究を始めており、グリッケンが独自のやり方で地質調査所を支援したいという申し出は、上級科学者から断られた〔Thompson, pgs. 150–51.〕。その代わりに、調査所に新しく雇用された地滑りの専門家バリー・ボイトとの仕事を見つけた。ボイトの指導下でグリッケンは仕事に没頭し〔Thompson, pg. 151.〕、それが調査所で仕事を得る動機となり、ジョンストンの死に関する苦悶が和らげられた〔Thompson, pgs. 151–152.〕。グリッケンと地質学者のチームが、セント・ヘレンズ山の構造的崩壊から出た岩屑原の地図を作った。それは火山本体のおよそ4分の1に相当した。この壮大で細かな分析によって、そのチームは屑の一片一片の起源や移動の手段まで解き明かした。それらは幅100ヤード (91 m) もある巨岩からほんの細片まであった〔。
グリッケンはそのチームと共に火山の地滑りに関する記念碑的研究を行い、背の高い火山が崩壊しやすいという理論を打ち立てた〔Thompson, pg. 152.〕。この研究はその特徴ある結論と詳細まで注意が払われている故に称賛され〔、世界中の火山で同様に堆積されたものを火山学者が同定できるようになった。グリッケンの論文からの所見が1980年代を通じて幾つか短い記事で出版された後〔、グリッケンは背の高い火山に近いハンモック原の形成を説明できる地質学者としては第一人者として認めらるようになった〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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