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ハリー・サイモン : ミニ英和和英辞書
ハリー・サイモン[はりー]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ハリー : [はりー]
 【名詞】 1. Harry 2. (n) Harry
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ハリー・サイモン : ウィキペディア日本語版
ハリー・サイモン[はりー]

ハリー・サイモンHarry Simon1971年10月21日 - )は、ナミビアプロボクサーウォルビスベイ(当時は南アフリカ領)出身。第6代WBO世界スーパーウェルター級王者。第12代WBO世界ミドル級王者。ナミビア初のプロボクシング世界王者にして世界2階級制覇王者。タフながら接近戦を好み、ロングフックやストレートを多用して一気にKOするスタイルの選手。ダウンは今まで1度も奪われたことはない。愛称は''The Terminator(ターミネーター)''。プロモーターとしてハリー・サイモン・オンクゴ・プロモーションを主催している。無敗の選手でありながら交通死亡事故と過失殺人を起こして逮捕されたことも影響しマネージメントのトラブルが多く試合が組めてもらえない。トレーナーはスーパーフェザー級クラス最強で、歴代最多防衛記録をタイながら保持しているブライアン・ミッチェル

== 来歴 ==
1992年バルセロナオリンピックに出場したが1回戦で敗退している。アマチュア時代の戦績は130戦121勝9敗。
1994年1月26日、サイモンはプロデビューを果たし初回TKO勝ちで白星でデビューを飾った。
1995年3月15日、エマニュエル・マーシレと対戦し5回TKO勝ちで世界ランカー入りを果たした。
1996年7月6日、デル・ブライアンと対戦し6回TKO勝ち。この年からフランク・ウォーレンと契約を結んだ。
1997年5月3日、ニック・オドールと対戦し5回2分37秒TKO勝ち。
1998年8月22日、ハウテン州カルセール・カジノでWBO世界スーパーウェルター級王者ロナルド・ライトと対戦。試合前の評判はディフェンス力が高いライトが有利だったが手数の多さで有利に進め、ボディ打ちを多用しながらロングフックを有効に使って前進し続け12回2-0(117-113、115-113、114-114)の判定勝ちでナミビア初の世界王者が誕生した。
1999年5月1日、ケビン・ルーシングと対戦し3回2分8秒TKO勝ちで初防衛に成功した。
2000年2月19日、エンリケ・アレコと対戦し10回TKO勝ちで2度目の防衛に成功した。
2000年9月23日、カナダオンタリオ州カジノ・ラマでロドニー・ジョーンズと対戦し12回2-0(2者が117-111、114-114)の判定勝ちで3度目の防衛に成功した。苦戦したサイモンはなんとか手数の多さで押し切って逃げ切った。
2001年2月10日、ワネ・アレクサンダーと対戦し5回2分43秒TKO勝ちで4度目の防衛に成功した。
その後サイモンはミドル級に転向を表明しWBO世界スーパーウェルター級王座を返上。
2001年7月21日、プエルトリコバヤモンのコリセオ・ルーベン・ロドリゲスでWBO世界ミドル級王者アルマンド・クラインクが王座返上の意思を示したため空位になったWBO世界ミドル級王座決定戦を後のWBC世界ミドル級王者アッシン・シェリフィーと対戦し12回3-0(2者が117-111、119-108)の判定勝ちで2階級制覇を達成した。しかし、クラインクが王座の返上を取りやめたため急遽暫定王座に格下げされた。
2002年4月6日、コペンハーゲンでWBO世界ミドル級王者アルマンド・クラインクと対戦し12回3-0(2者が116-112、116-113)の判定勝ちで王座統一とともに初防衛に成功した。
2002年11月、ベルギーでサイモンが運転する車(メルセデス・ベンツ製)で観光客3人を跳ねて死亡させた事故を起こし逮捕され収監される。その時サイモンも骨折し重傷を負った。WBOは翌2003年6月29日にWBO世界ミドル級王座を剥奪した。その後2005年に懲役2年の判決を受けたがラングストラントで起こした過失殺人が発覚にしたため、過失殺人で懲役4年の判決を受けた。
2007年3月3日、ステファン・ンズエムバと対戦し8回3-0(79-73、80-73、78-74)の判定勝ちで5年ぶりの復帰戦を飾った。
2009年に刑期が満期を迎えたため釈放される。
2010年12月4日、ラシード・マツムァと対戦し初回1分43秒TKO勝ち。
2012年6月23日、サイモンが主催するプロモーター内で共同設立者ノウレッジ・イイピンゲ〔プロモーター成績 BoxRecより〕とトラブルになって以来2年ぶりに復帰戦。ルーベン・グロウネワードと対戦し初回1分23秒TKO勝ち。
2013年9月28日、ゲアード・アジェトビックとIBFインターナショナルライトヘビー級王座決定戦を行い12回3-0(2者が117-111、116-113)の判定勝ちを収め王座獲得に成功した。
2014年11月29日、ゲアード・アジェトビックと再戦を1年2ヶ月ぶりに復帰戦を行う予定だったが、直前になってファイトマネーが払えず中止になった。なお同年8月9日に出身地で試合を行う予定だったが延期していた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ハリー・サイモン」の詳細全文を読む




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