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ハンク・ウィリアムズ : ウィキペディア日本語版
ハンク・ウィリアムズ

ハンク・ウィリアムズ〔姓は、日本盤のレコードなどでは「ウィリアムス」と表記されるが、文献での言及では、しばしば実際の発音に近い「ウィリアムズ」とされる。〕(Hank Williams、本名:ハイラム・キング・ウィリアムズ、Hiram King Williams、1923年9月17日 - 1953年1月1日)は、カントリー音楽の歴史において最も重要な人物のひとりと見なされている、アメリカ合衆国シンガーソングライター音楽家1947年から、29歳で亡くなった1953年の最初の日までの短い間に、ウィリアムズは、「ビルボード」のカントリー&ウェスタン・チャートにおいて、1位になった11枚を含め、トップ10入りした35枚のシングル盤を録音した(このうち5枚は、ウィリアムズの死後にリリースされた)。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第27位。「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第74位。「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第59位。
== 略歴 ==
父イロンゾ・ウィリアムズ(Elonzo Williams)は、鉄道会社に勤め、しばしば異動があり、一家はアラバマ州南部の数カ所を転居した。父イロンゾが病気で8年間入院することになり、その間に残された家族は自活を余儀なくされた。幼いウィリアムズは、二分脊椎症のために健康を害していたが、母と姉の手伝いをした。アラバマ州ジョージアナGeorgiana)に住んでいたときに、ウィリアムズはルーファス・"ティー=トット"・ペインRufus "Tee-Tot" Payne)という黒人の路上演奏者に出会い、食事の提供と交換にギターを習った。ペインはウィリアムズの後の音楽のスタイルに大きな影響を与えた。この頃、ウィリアムズは、非公式にだが名前をハンクと改めた。その方がカントリー音楽らしいと思ったのである。
アラバマ州モンゴメリーに住んでいたとき、ティーンエイジになっていたウィリアムズは、地元のラジオ局WSFAのスタジオ前の歩道で、ギターを弾きながら歌っていることがよくあった。首尾よくWSFAのプロデューサーたちの関心を引くことができたウィリアムズは、1937年から、15分番組で歌と司会を務めるようになった。バックを務めるバンドとして結成したザ・ドリフティング・カウボーイズは、ウィリアムズの母がマネジメントを引き受けた。ウィリアムズは学校を辞め、全ての時間を使って音楽の仕事に打ち込んだ。
1941年第二次世界大戦に合衆国が参戦すると、バンドのメンバーの数人が徴兵されてしまう。二分脊椎症のために徴兵されなかったウィリアムズは、代わりのメンバー探しに手こずった。このことと、健康の問題に自分なりに対処しようとして飲み始めた酒の問題が大きくなり、やがてWSFAはウィリアムズを解雇した。1943年、ウィリアムズはオードリー・シェパードAudrey Sheppard)と結婚し、彼女はステージでウィリアムズとデュエットで歌うとともに、マネージャー役を果たすようになった。スターリング・レコードSterling Records)から「Never Again」と「Honky Tonkin'」を出した後、ウィリアムズはMGMレコードMGM Records)と契約を結んだ。1948年、ウィリアムズは「Move it on Over」をリリースし、ヒットとなった。この年、ウィリアムズは、当時ラジオ番組だった『''Louisiana Hayride''』に出演するようになった。1949年には「Lovesick Blues」をリリースし、これによって音楽界の主流の仲間入りをする。やがて、最初は断られた『グランド・オール・オプリ』への出演も実現した。1948年から1953年までの間に、ウィリアムズは11曲を(「ビルボード」のカントリー&ウェスタン・チャートの)1位に送り出したが、楽譜の読み書きはほとんどできなかった。ウィリアムズのヒット曲には、このほか、「Your Cheatin' Heart」、「Hey Good Lookin'」、「I'm So Lonesome I Could Cry」などがある。
ウィリアムズは、思わしくない背中の状態に由来する痛みを和らげるため、アルコールモルヒネをはじめ、様々な鎮痛剤を服用していたが、1952年には、それが私生活でも、職業生活においても問題を引き起こすようになっていた。ウィリアムズは、何度も深酒で酩酊し、そのために離婚し、『グランド・オール・オプリ』から解雇された。1953年1月1日、コンサートへ赴く途中、ウィリアムズは医師にビタミンB12とモルヒネの混合液を注射してもらったが、既にアルコールと抱水クロラールを摂取していたこともあって、致命的な心臓発作に見舞われた。ウィリアムズは、まだ29歳だった。短い人生ではあったが、ハンク・ウィリアムズはカントリー音楽に多大な影響を残した。
ウィリアムズの曲は、他の数多くの歌手たちによっても録音され、ポップゴスペルブルースロックなど様々なスタイルでヒットした曲も多かった。ウィリアムズの曲をカバーした歌手たちの例としては、ウィリー・ネルソンタウンズ・ヴァン・ザントTownes Van Zandt)、ボブ・ディランレナード・コーエンケイクケニー・ランキンKenny Rankin)、ベック・ハンセンジョニー・キャッシュトニー・ベネットザ・レジデンツパッツィ・クラインレイ・チャールズルイ・アームストロングトム・ウェイツなどが挙げられる。ウィリアムズは多数の栄誉に輝いていており、ロックの殿堂入りも果たしている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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