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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ハンス・シュローダー(Hans Schroeder、1942年 - )は、アメリカ合衆国で活動した元プロレスラー。出身地はギミックの通りドイツとされる〔。妻は女子プロレスラーのレイラニ・カイ。 鉄兜にハーケンクロイツのブーツというナチス親衛隊スタイルのヒールとして活躍したが、髪はスキンヘッドではなく(キャリア後期は金髪)、ファイトスタイルもラフ&パワー主体でクロー・ホールドを多用しないなど、バロン・フォン・ラシクやキラー・カール・クラップといった他のドイツ系ギミックのレスラーとは一線を画していた。 == 来歴 == アマチュアレスリングを経てハノーバーでプロデビューした後、オーストラリアに渡ったとされる〔。以降、1964年から1970年代前半にかけて豪州マットを主戦場に活動、マーク・ルーインやスパイロス・アリオンとも対戦した。1972年8月、ジャイアント馬場離脱後の日本プロレスに初来日。翌1973年6月には全日本プロレスに来日している。 1974年10月よりニューヨークのWWWFに参戦し、ヒールのミッドカード要員として、ゴリラ・モンスーン、ディーン・ホー、トニー・ガレア、チーフ・ジェイ・ストロンボー、ヘイスタック・カルホーン、ビクター・リベラ、パット・バレット、ドミニク・デヌーチ、イワン・プトスキーなどと対戦。タッグでは同様のポジションにいたジョー・ノボとのコンビで活動したほか、キラー・コワルスキーのパートナーにも起用された。 1975年夏、カナダのカルガリーにて覆面レスラーのジ・アンダーテイカー(''The Undertaker'')に一時変身し、翌1976年4月、このギミックで国際プロレスに来日。参戦外国人選手の全員が覆面レスラーという異色のシリーズにおいてエース格を務め、4月13日に茨城県岩瀬町にてラッシャー木村のIWA世界ヘビー級王座に挑戦。3本勝負で1本先取された後、2本目は両者リングアウトとなり、スコアの上では木村が11度目のタイトル防衛に成功したが、この判定を不服として木村は王座を返上〔『忘れじの国際プロレス』P101(2014年、ベースボール・マガジン社、ISBN 4583620802)〕。9日後の4月22日、宮城県スポーツセンターにて金網デスマッチで両者間の新王者決定戦が行われ、改めて木村が勝利〔。試合後に覆面を剥がされて素顔を晒している。 その後、NWAの各テリトリーを転戦し、1977年はフロリダでスティーブ・カーンやジョー・ルダック、ジャック・ブリスコ&ジェリー・ブリスコと抗争。1978年はアマリロ地区にて、ドリー・ファンク・ジュニア、ディック・マードック、リッキー・ロメロ、リップ・ホーク、サイクロン・ネグロ、テッド・デビアスらと対戦。1979年にはテネシーのミッドアメリカ地区でデビッド・シュルツやトージョー・ヤマモトと共闘、マイケル・ヘイズ&テリー・ゴディのファビュラス・フリーバーズやプリンス・トンガとも対戦した。メンフィスのCWAでは覆面レスラーのゲシュタポをパートナーに、ジェリー・ローラー&ビル・ダンディーやテリー・ボールダー&エディ・ボールダーと対戦している。 1980年は妻レイラニ・カイのギミック上の出身地でもあるハワイに登場、3月5日にピーター・メイビアからNWAハワイ・ヘビー級王座を奪取した。同年下期からはダラス地区を経てフロリダに戻り、イギリス出身のロード・アルフレッド・ヘイズやロシア人ギミックのニコライ・ボルコフとの反米ユニットで活動。バリー・ウインダムが保持していたTV王座に再三挑戦し、バグジー・マグローやボボ・ブラジルとのランバージャック・マッチも行われた。 1981年10月から1982年1月にかけては再びWWFにて活動、WWFヘビー級王者のボブ・バックランドをはじめ、ペドロ・モラレス、トニー・アトラス、リック・マーテル、パット・パターソンらのジョバーを務めた。その後はブルーノ・サンマルチノが東部地区で興した独立団体IWFに出場。セミリタイア後の1984年はジム・クロケット・プロモーションズの前座試合に出場していた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ハンス・シュローダー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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