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ハンヌ・オラヴィ・ミッコラ( Hannu Olavi Mikkola 、1942年5月24日 - )は、フィンランド、ヨエンスー出身の元ラリードライバーで、1983年世界ラリー選手権ドライバーズチャンピオン。フィンランドの1000湖ラリーに7回 〔1968、1969、1970、1974、1975、1982、1983年。7勝はマーカス・グロンホルムと並ぶ同ラリー最多勝。〕 、英国の RAC ラリーに4回優勝した。 ==経歴== 1963年のボルボ PV 544に始まるミッコラのラリーキャリアは31年に渡ったが、最も成功したのは1970年代と1980年代だった。1970年代、ミッコラはフォード・エスコートを駆る数多くの国際的イベントのフロントランナーだった。WRC ドライバーズタイトルが創設された1979年には重要な局面をつくり、チャンピオンとなったビョルン・ワルデガルドに僅か1ポイント及ばず総合2位でシーズンを終えた。 ミッコラは1977年にスウェーデン人のコ・ドライバー、アーネ・ヘルツと組んだ。この組は非常に速く力を発揮し、エスコートで1978年の英国ラリー選手権タイトルを獲得した。ミッコラ / ヘルツのパートナーシップは1990年シーズンの終わりまで13年間続き、1991年シーズンはヨニー・ヨハンセンと組んだ。 ミッコラはフォードで1980年再びシーズン2位となったが、1981年シーズンには新しいアウディ・ファクトリー・チームに移り、革命的な四輪駆動アウディ・クアトロをドライヴした。この提携は当初から成功し、ミッコラはアウディのデビューイベント、1981年ラリー・モンテカルロをアクシデントでリタイアするまでリードした。次の WRC イベント、スウェーディッシュ・ラリーでは圧勝したが、クアトロは信頼性の問題を抱えており、RAC ラリーで更に勝利を重ねたにもかかわらずミッコラはドライバー選手権で3位となっただけだった。翌年は1000湖と RAC に勝利したが、オペルのヴァルター・ロールとチームメイトのミシェル・ムートンに遅れ再度3位で選手権を終えた。 1983年はミッコラの年となった。4勝し3回2位となり、ついに彼とコ・ドライバー、アーネ・ヘルツが世界選手権タイトルを獲得した。続く1984年はチームメイトのスティグ・ブロンクビストに次いで選手権2位となったが、1985年は新しいグループB競技でアウディ・チームはプジョーとランチアに圧倒され、4戦エントリーに留まり3回リタイア、4位1回で最終順位は22位に落ちた。ミッコラは1987年シーズンまでアウディに残り、この年グループA アウディ・200でサファリ・ラリーに勝利し、翌年マツダに移籍した。 1993年に完全にモータースポーツを引退するまで国際的なラリーにスポット参戦していたが、1991年にセミ・リタイアに入るまではマツダに留まっていた。その後ミッコラは1970年ロンドン-メキシコ・ワールドカップ・ラリー25周年記念ランでのコ・ドライバー、グンナー・パルムとの再会(ミッコラは1970年のこのイベントと1995年の再走に優勝している)や、1968年の1000湖ラリー 〔このときのミッコラとティモ・マキネンの二人のフィンランド人ドライバーの優勝争いは ''The Flying Finns'' というタイトルで映画化された。〕 で優勝したフォード・エスコートで長男のユハ・ミッコラ 〔 Juha Mikkola はフロアボールのカナダ・カップの創設者。また、弟のヴェーサ・ミッコラ Vesa Mikkola はスズキのワークスドライバーとして2004年ラリージャパンに参戦しており、このとき父親のハンヌも来日している。なお、ハンヌの甥イルッカ・ミッコラ Ilkka Mikkola はフィンランドのプロアイスホッケー SM リーガの選手。〕 とロンドン-シドニー・マラソン 2000 ラリー出場などを行った。 2008年9月、ミッコラはスコットランド・ラリー選手権のラウンド、コリン・マクレー・フォレスト・ステージ・ラリー( Colin McRae Forest Stages Rally )にフォード・エスコートで参加した。2007年に死去したマクレーの追悼イベントには何人かの元世界チャンピオンも参加しており、ミッコラもそのひとりだった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ハンヌ・ミッコラ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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