翻訳と辞書
Words near each other
・ ハンヌ・ティヒネン
・ ハンヌ・マンニネン
・ ハンヌ・ミッコラ
・ ハンヌ・ライアニエミ
・ ハンヌ・リントゥ
・ ハンネス・アルヒ
・ ハンネス・アルベーン
・ ハンネス・コーレマイネン
・ ハンネス・シュテルツァー
・ ハンネス・シュナイダー
ハンネス・マイヤー
・ ハンネリ・ホースラル
・ ハンネローレ・クラフト
・ ハンネン・スワッファー
・ ハンネ・ヴァトネ
・ ハンノ
・ ハンノキ
・ ハンノキ属
・ ハンノキ滝
・ ハンノ・コフラー


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ハンネス・マイヤー : ウィキペディア日本語版
ハンネス・マイヤー[ちょうおん]

ハンネス・マイヤー(Hannes Meyer, Hans Emil Meyer; 1889年11月18日 - 1954年7月19日)は、スイスバーゼル出身の建築家都市計画家建築についての教育者

== 人物 ==
スイス、ドイツイギリスで建築を学ぶ。ハンス・ウイットワーと事務所を開き、国際連盟本部のプロジェクトなどを設計した。1916年から1918年までエッセンクルップで部長を務めた〔Bauhaus, 1919-1933, by Magdalena Droste, Bauhaus-Archiv, page 248〕。1928年には、CIAM(近代建築国際会議)にも参加。
1928年からバウハウスの第2代校長を勤め、バウハウスとしてはじめて本格的な建築課程(建築科)を設置した(バウハウスが当初から建築を重視していることから考えると、遅きに失しているとの評価あり)。しかし、1931年には、公然たる共産主義者だったため、校長を解雇された〔Richard A. Etlin editor, ''Art, culture, and media under the Third Reich'', page 291, ISBN 0-226-22087-7
ISBN 978-0-226-22087-1〕。
その後、高等建築建設学院ヴァシの招きでソ連モスクワ)に亡命し、8人のメンバーで活動。高等技術教育学院の建設委員キプロットラスに所属し、教育施設などを手がける。ソ連には1937年まで滞在し、その間の1935年から建設学院の東シベリアおよび極東部長、建築アカデミーハウジング建設部局長などを歴任。
スイス、メキシコにおける教育活動を経て、スイスに戻る。
実作品としては、ADGB(全ドイツ労働組合総連合; Allgemeiner Deutscher Gewerkschaftsbund)の連合学校(ベルナウ, Bernau bei Berlin)が有名。
都市計画でも、ニジニ・クリンスク、1932年のゴーリキ、ヘブライコミューンのビロビジャーンなどの計画を多く手がける。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ハンネス・マイヤー」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.