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ハンブルク大火(独:)とは、1842年5月5日から5月8日にかけてハンブルクの旧市街の大部分を破壊した、大規模な都市火災である。 ハンブルクの郷土史に触れる文脈においては、単に「大火災(der Große Brand)」と呼ばれる場合も多い。この火災は、50キロ離れた場所からも見ることができた〔カール・フリードリヒ・ヘルマン・クレンツェ: ''Der Hamburger Brand und Uetersens Hilfe'', Teil 1–3 (1842). ウィキペディア・コモンズに画像あり: 〕。 ==経過== この火災は1842年5月5日の午前1時頃〔 ''"Vor 170 Jahren: Der große Hamburger Brand von 1842" '' Hamburger Feuerwehr-Historiker e.V. 2012 〕、ニコライフレートのダイヒ通り42番地〔''Rettet die Deichstraße e. V. 、ドイツ語版の作成者は2011年7月6日に参照。〕にある葉巻きたばこ製造業者、コーエン宅で発生した。正確な出火原因は不明である。 夜警隊は迅速に察知したものの、急行した消防隊は消火と延焼の防止に失敗した。これに先立つ大気の乾燥および無風状態という、悪条件が重なったのである。炎は一時的にニコライフレートの対岸、すなわち東側のクレモン地区さえも脅かす。しかしそこで発生した一連の小火は、消火が間に合った。そのためニコライ地区(Nikolaiviertel)の火災は、主に北と西に向かって延焼していく。当初、火災の拡大を発破で阻む検討は批難された。 昇天日にあたる1842年5月5日の朝には、すでにニコライ地区のかなりの部分が炎に包まれていた。聖ニコライ中央教会では、まだ朝の礼拝が行われており、昼になっても最後の礼拝が実施された。午後4時頃には火が塔に燃え移り、それは多大な努力も空しく焼失する。言い伝えによれば、その鐘は熱の効果で最後の音を響かせたという。続いて鐘楼は崩落し、身廊に火を点けた。 夕方に炎は、聖ニコライ教会の北東、トロースト橋に面する広場(現在では愛国社の建物がある)の旧市庁舎に迫った。書類の大部分を安全な場所に移した後、その爆破が決定されるが、これは不完全に終わる。炎はがれきを充分に燃料として拡大し、防火区画を超えて燃え広がった。 5月6日中に火災は北に広がり、現在では証券取引所や市庁舎の施設が立つ一帯を捉えた。このときには、1841年12月に転居したばかりの新証券取引所にも延焼の危険に晒されている。しかし一時的に四方を炎に囲まれながらも、新しい建物は難を逃れることができた。そして晩になると、炎はゲンゼマルクトに達する。しかし発破などの努力により、それ以上西への延焼は防がれた。 続いて火災は東と北へ広がった。5月7日には絶望的な努力も空しく、聖ペトリ中央教会が焼け落ちる。同様にゲルトゥルーデ礼拝堂も失われ、再建されることはなかった。それに対して、聖ヤコビ中央教会を含むさらに東の一帯は被害を免れている。最終的に内アルスター湖とグロッケンギーサーヴァルでは延焼が食い止められ、5月8日にクルツェ・ミューレン通りで焼けた家屋が最後に被災したものとなった。 そのためクルツェ・ミューレン通りからバリンダムに伸びる道は現在、「ブランツエンデ」(Brandsende、「火災の終わり」)と呼ばれている。これに対し、旧市街南部のブランツヴィーテは大火と関係がない。同地の名は1410年、その逮捕が蜂起と最初の都市法制定に繋がったハンブルク市民、ハイン・ブラントにちなんでいる。 その間にアルトナ、イゥーターゼン、ヴェーデル、ヴァンツベック、ゲーストハハト、ラウエンブルク、リューベック、シュターデやキールなど隣接する各地から放水隊が集まった。 鎮火から一周年の記念日である1843年5月8日、「エルベ川近隣市民のための実直なる評議会」の提案により、「委員会」を通して様々な協力に対し「心からの感謝」を表明するとともに、溶解した青銅製の鐘や銅で作成した記念硬貨および記念メダルを、「祝典の場で公に」贈呈することが決まった〔オットー・クリスティアン・ゲーデヒェンス: ''Hamburgische Münzen und Medaillen''. J.A. Meissner, Hamburg 1850, P. 119 ff〕。特に深く感謝を表明するため、1843年に自由ハンザ都市ブレーメン市長のヨハン・スミット、アルトナ市長およびプロイセン王国マクデブルク市のザクセン州長官に名誉市民権が贈られている。 この大火によりハンブルクの郷土史でも重要な一事、すなわちハンブルク初の鉄道開通が延期を余儀なくされた。これはベルゲドルフに向け、1842年5月7日に運行を開始する予定であった。しかし賓客の代わりに、最初の列車が運んだのは燃える市街から脱出する避難民だったのである。計画的な運行は5月17日、特に祝典もなく始まった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ハンブルク大火」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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