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ハーパーズ・フェリーの戦い : ミニ英和和英辞書
ハーパーズ・フェリーの戦い[はーぱーず ふぇりーのたたかい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦い : [たたかい]
 【名詞】 1. battle 2. fight 3. struggle 4. conflict 

ハーパーズ・フェリーの戦い : ウィキペディア日本語版
ハーパーズ・フェリーの戦い[はーぱーず ふぇりーのたたかい]

ハーパーズ・フェリーの戦い(ハーパーズ・フェリーのたたかい、英:Battle of Harpers Ferry)は、南北戦争メリーランド方面作戦の一部として1862年9月12日から9月15日にかけて行われた戦いである。ロバート・E・リー将軍の南軍メリーランド州に侵攻したとき、その一部であるストーンウォール・ジャクソンの軍団がバージニア州(現在はウェストバージニア州ハーパーズ・フェリー北軍守備隊を包囲して砲撃し、降伏させた。ジャクソン隊はその後メリーランド州シャープスバーグに急行して、リー軍と合流しアンティータムの戦いに参戦した。
== 背景 ==
ハーパーズ・フェリー(元々はハーパーの渡し場)はポトマック川シェナンドー川が合流する地点にある小さな町であり、昔からアメリカ陸軍の弾薬庫と(ジョージ・ワシントン大統領が設立した)〔Wolff, p. 928.〕、ボルチモア・アンド・オハイオ鉄道でポトマック川を渡るための重要な橋があった。以前に奴隷制度廃止運動家のジョン・ブラウンがその弾薬庫を襲撃したことがあった。
この町はあらゆる面が高い丘に見下ろされており、事実上防御には不向きだった。西方は、徐々に標高が上がって約1.5マイル先の標高668フィート (204 m)の高原、ボリバー高地に繋がり、それがポトマック川からシェナンドー川まで拡がっていた。南方のシェナンドー川の向こうにはラウドン高地が1,180フィート (360 m)の高さから見下ろしていた。また北東のポトマック川の向こうは、エルク尾根の最南端にあたり、標高1,476フィート (450 m)のメリーランド高地の尾根になっていた。ある北軍兵士は、これら3つの高地を保持できなければ、ハーパーズ・フェリーは「井戸の底よりも防御できない」と記していた〔Bailey, p. 39.〕。
ロバート・E・リーの北バージニア軍がメリーランド州に侵入すると、リーは、ウィンチェスターマーティンズバーグおよびハーパーズ・フェリーでシェナンドー渓谷にある南軍の供給線を遮る可能性がある北軍守備隊は、孤立すれば1発の発砲も無く放棄されると予測した(事実、ウィンチェスターとマーティンズバーグは放棄された)〔Sears, p. 83.〕。しかしハーパーズ・フェリー守備隊は撤退しなかった。リーはハーパーズ・フェリーの守備隊と弾薬庫を占領して、そこの武器弾薬を確保するだけでなく、バージニアまでの供給線を確保しておく作戦を立てた。
リー軍は勢力比で2対1と優勢な北軍ジョージ・マクレラン少将のポトマック軍から緩りとした速度で追跡されていたが、ハーパーズ・フェリーという賞品を手に入れるために、その軍隊を分割するという危険性のある戦略を選んだ。ジェイムズ・ロングストリート少将の軍団が北のヘイガーズタウンに向かう一方で、ハーパーズ・フェリーに結集して攻撃させるために3つの方向から部隊を送った。一番大きな部隊はジャクソンの11,500名であり、ポトマック川を渡りハーパーズ・フェリーの西に回り込んでボリバー高地から攻撃することとした。他の2部隊、ラファイエット・マクローズ少将(8,000名)とジョン・G・ウォーカー准将(3,400名)は東と南から町を見下ろすメリーランド高地とラウドン高地をそれぞれ占領することとされた〔Bailey, pp. 38-39.〕。
マクレランはその野戦部隊にハーパーズ・フェリーの守備勢力を加えたいと思ったが、総司令官ヘンリー・ハレックがその移動は難しすぎ、守備隊は「最後の瞬間まで」すなわちマクレラン軍が解放に来ることが出来るまで自分達で守らなければならないと言って、マクレランの提案を拒否した。おそらくハレックは守備隊の指揮官ディクソン・S・マイルズ大佐が少しでも軍事的知識と勇気を示してくれるものと期待していた。マイルズはアメリカ陸軍で米墨戦争も戦った38歳の古参兵であったが、第一次ブルランの戦いの後で、マイルズが戦闘中に酔っぱらっていたと審問された時から面目を失っていた。マイルズは酒を断つと誓い、静穏であると考えられるハーパーズ・フェリーの任務に配転された〔Sears, p. 89.〕。守備隊の多くは経験の足りない者であり、総勢は14,000名だが、9月11日にジャクソン隊の接近によってマーティンズバーグの撤収を余儀なくされた2,500名を含んでいた〔。

9月11日の夜、マクローズがハーパーズ・フェリーの北東6マイル (10 km)のブラウンズビルに到着した。マクローズはブラウンズビル峡谷近くにその後衛として3,000名を残し、他の3,000名をポトマック川に向かわせてハーパーズ・フェリーから東への逃亡経路を塞いだ。9月12日にジョセフ・B・カーショーとウィリアム・バークスデイル各准将の古参兵旅団をメリーランド高地確保に向かわせた〔。他の南軍部隊は緩りとしか進めず予定より遅れていた。ジャクソン隊はマーティンズバーグで遅れた。ウォーカー隊はチェサピーク・アンド・オハイオ運河からモノカシー川を横切ってポトマック川に注ぐ水路を破壊するように命じられたが、その工兵では石造りの構造を破壊するのが難しく、結局中止された〔Sears, p. 95.〕。

ウォーカー隊は9月9日にポイント・オブ・ロックスからバージニア州のラウダン郡に入り直した。ウォーカー隊はラウダン生まれのイライジャ・V・ホワイト大佐とその第35騎兵大隊に支援されていた。ホワイトはその任務に不満であり、軍本隊と共にいることを好んだ。ホワイトにとって不幸なことに、メリーランド州フレデリックでJ・E・B・スチュアート将軍と口論になり、その後リーによってバージニア州に戻るよう命令された。その処置が責められるかそうでなかろうと、ホワイトはショートヒル山周辺の曲がりくねった道を誘導して、4日後の13日にラウダン高地の麓に到着した〔Divine〕。このために9月11日に予定されていたハーパーズ・フェリーへの攻撃が遅れ、リー軍が分割されている間にマクレランが攻撃してリー軍の残り部隊を破壊する危険性が増した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ハーパーズ・フェリーの戦い」の詳細全文を読む




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