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バアス党(バアスとう、, Hizbul-Ba'ath ヒズブ・ル=バアス)は、シリア・イラクなどのアラブ諸国で活動する汎アラブ主義政党。公式名称はアラブ社会主義復興党()。日本では慣用としてバース党とも表記するが、実際のアラビア語の発音では「バアス」と発音・表記する。 == 概要 == 「バアス」()とはアラビア語で「復興」「使命」を意味し、党名への採用にあたり「かつて東は中国から西はスペインに及ぶ広大な領土を勢力下に置き、化学や医学など様々な学術・技術で世界をリードしていたアラブの栄光を取り戻す」という意を込めている〔授業番組「現代の国際政治」シリーズ 第8回「イラク(1)同盟者サダム・フセイン」(放送大学、講義:高橋和夫放送大学教授)〕。更に、アラブ社会主義・汎アラブ主義(アラブ民族主義)を併せ持つ政治的主張を有している。(かつてエジプトでガマール・アブドゥル=ナーセルらが目指した様に)アラブ近代化もイデオロギー上で大前提としている為、イスラム原理主義(イスラーム主義)とは対立している。「単一のアラブ民族、永遠の使命を担う」()をスローガンとし、「統一」()、「自由」()、「社会主義」()の実現をめざす。一連の思想を「バアス主義」と言う。 バアス党の結党当初の目標は、西洋によって線引きされた既存の国家群を解体し、統一したアラブ民族による国家を建国することが目的であり(バアス党のシンボルにも表されている)、その領土は西は北アフリカのモーリタニアから、東はイランのフーゼスターン州、南は東アフリカのソマリアまで含まれる。 バアス党の創設者の一人であるミシェル・アフラクがフランス共産党の植民地政策容認に失望するまでは共産党の活動家〔Arab Socialism. Al-ʻArabīyah : A Documentary Survey, Sami Ayad Hanna, p.297.〕だったようにマルクス主義の影響はあるものの(サラーフッディーン・アル=ビータールもマルクス主義者であった〔The Old Social Classes and New Revolutionary Movements of Iraq, Hanna Batatu, pp. 724-725.〕)、イラクのバアス党はアブド・アル=カリーム・カーシム首相がアラブ連合共和国への参加を拒むとイラク支部長のフアード・リカービーは閣僚を辞任して1956年からのカーシムの属する国民民主党やイラク共産党との同盟〔Ghareeb, Edmund A.; Dougherty, Beth K. Historical Dictionary of Iraq. Lanham, Maryland and Oxford: The Scarecrow Press, Ltd., 2004. Pp. 104.〕を解消してカーシム暗殺未遂事件を起こし、ラマダーン革命の際はカーシムを支持した共産党を弾圧している(1963年11月イラククーデターでバアス党はナセル主義者に追放され、7月17日革命で樹立したアフマド・ハサン・アル=バクル政権は共産党とイラク国民進歩戦線を結成し、共産党員を2名入閣させるも後に弾圧し、小さなセクトのみ容認した〔Ismael, Tareq Y. ''The Rise and Fall of the Communist Party of Iraq ''. Cambridge/New York: Cambridge University Press, 2008. pp. 185-186〕〔 Ilario Salucci. A People's History of Iraq: The Iraqi Communist Party, Workers' Movements and the Left, 1924-2004 .〕)。シリアのバアス党は1950年代から共産党との共闘路線を続けており〔Laqueur, Walter (1969). The Struggle for the Middle East: The Soviet Union and the Middle East, 1958-68. Routledge. p. 88.〕〔Abdulghani 1984, p. 28.〕、現在のバッシャール・アル=アサド政権下でもシリア国民進歩戦線でシリア共産党と連立して入閣させ続けている〔現代東アラブ地域情勢研究ネットワーク - シリア内閣 〕など容共である。 バアス党の源流は20世紀の初頭にさかのぼることが出来、シリア人の思想家ミシェル・アフラク(1910年-1989年)らによって基本的な政治信条が形成されていった。第1回の公式の党大会は1947年4月7日にダマスカスで開催、最初は軍の少壮将校や知識人など限られた層で成り立っていたが、次第に影響力を強め1954年 - 1958年にシリアを本拠にイラク・レバノン・ヨルダン・イエメンに党地域指導部を置いた(カタールとチュニジアにも存在したが、両国政府により非合法化される)。しかし、イラク・バアス党がシリア・バアス党の影響下に入ることを嫌い、自主独立路線を掲げてシリアの指導下から離脱。その他諸国のバアス党もレバノンを除いてイラクの路線に従った。 2011年のアラブの春の発端ともなるジャスミン革命以後チュニジアでバアス党が公認された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「バアス党」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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