|
__NOTOC__ バイダル(Bydar、生没年不詳)は、モンゴル帝国の軍人でチャガタイの子〔『新元史』によれば、チャガタイの第3子とされる。『新元史』 巻107 列伝第四 太祖諸子二 〕〔『集史』では第6子とされる。宇野伸浩「『集史』第1巻「モンゴル史」の諸写本におけるチャガタイ・カンの息子たちの順序の混乱 」『人間環境学研究』 10号、2012年2月、175-177頁。〕。 漢字では、貝達爾〔、拝達児〔「バイダル(拝達児) 」コトバンク〕と表記され、ペルシア語では Bāīdār 〔と表記する。 子にチャガタイ・ハン国の第5代ハーン・アルグがいる。 == 生涯 == バイダルは1235年から1241年にかけてのモンゴル帝国によるヨーロッパ征服事業に甥のブリと共に参加した。この遠征はモンゴルでは「(''The elder boys campaign'')」と呼ばれている。) バイダルはポーランド侵攻部隊を指揮した。バイダルとともに指揮を執ったのはや、おそらくオルダである。(詳細はモンゴルのポーランド侵攻を参照)。征服事業に於いて、バイダルは大勢のポーランド人、ロシア人、ドイツ人そしてモラヴィア人を打ち負かした。 1241年2月13日、バイダルの軍は凍結したヴィスワ川を渡った。モンゴル軍はを陥落せしめ略奪を働いた。 バイダル率いるモンゴル軍はさらに西へ向かい、3月18日にはボレスワフ5世のポーランド軍に遭遇、フミェルニクの戦いが行われた。(ただしこのときボレスワフ5世自身は合戦には参加しなかった。)ポーランド軍は大敗し、ボレスワフ5世は敗残兵とともにモラヴィアへ潰走した。 3月22日にバイダル軍はクラクフの入口に至ったが、既に住民の大半は町を逃げ出していた。聖枝祭の日〔聖枝祭はキリスト教正教会の復活大祭の1週前の日曜日。通例、3月末から5月上旬のいずれかにあたる。〕にバイダル軍はクラクフに火を放ち、まだ町に残っていた住民を捕まえて数多くの捕虜を得た。 バイダルとオルダの軍は更に西進、オポーレの東部での軍に出会い、これ撤退させた。 ラチブシュの町の近郊で、モンゴル軍はオーデル川を渡った。ラチブシュの住民らは自ら町を焼いて逃げた。 バイダルの軍は、次にヴロツワフの町を陥落させたものの、ヴロツワフ砦は降伏しなかった。モンゴル軍は、砦への最初の攻撃が不首尾に終わると、砦攻めに時間を費やすのをやめた。モンゴル軍は砦を迂回して、西へ向かうことにした。 ポーランド・チェコ・テンプル騎士団の連合軍をレグニツァで破った後(レグニツァの戦い〔戦場の地名から「レグニッツァの戦い」(ポーランド語)、「リーグニッツの戦い」(ドイツ語)などと表記する。「ワールシュタットの戦い」としても知られているが、「ワールシュタット」は「死体の山」(ドイツ語)の意味である。〕)、モンゴル軍はオポーレとの間にあるで2週間に渡って野営した。 1241年5月上旬にバイダル軍はモラヴィアに侵入した。バイダル軍は進撃を続け、バトゥ率いる主力軍とハンガリーで合流した。ボヘミア(現在のチェコ共和国に相当)は脅かされなかったが、モラヴィアは大変な脅威に耐えなければいけなかった。 バイダルは1247年のグユク・ハーンの擁立にも関わったという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「バイダル」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|