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バイバルス・アル=ブンドクダーリー( al-Malik al-Zāhir Rukn al-Dīn Baybars al-Bunduqdārī, 1223年〔小林「バイバルス」『アジア歴史事典』7巻、325頁〕/28年〔佐藤「バイバルス」『新イスラム事典』、387頁〕〔牟田口『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』、184頁〕/33年〔前嶋『イスラムの時代 マホメットから世界帝国へ』、346頁〕 - 1277年6月30日〔ドーソン『モンゴル帝国史』5巻、79頁〕7月1日〔大原『エジプト マムルーク王朝』、29頁〕〔牟田口『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』、221頁〕)は、マムルーク朝(バフリー・マムルーク朝)の第5代スルターン(君主。在位:1260年-1277年)。在位中の事績から実質的なマムルーク朝の建国者と評価されることもある〔ヒッティ『アラブの歴史』下、641頁〕。即位名によりアッ=ザーヒル・バイバルス( al-Malik al-Zāhir Baybars)とも呼ばれる。 マムルーク(軍人奴隷)としてエジプトのアイユーブ朝に仕え、1250年のマンスーラの戦いでエジプトに侵入した十字軍に大勝を収める。1260年のアイン・ジャールートの戦いではモンゴル軍に勝利し、モンゴルのエジプトへの進出を阻止した。戦後、マムルーク朝のスルターン・ムザッファル・クトゥズを殺害して王位に就き、全シリアを併合する〔。バイバルスの軍事的・政治的な能力により、外部勢力の侵入に反応して成立したマムルークたちの政権は確固たるものとなった〔J.C.ガルサン「エジプトとムスリム世界」『ユネスコ・アフリカの歴史』4 下巻収録(D.T.ニアヌ編, 同朋舎出版, 1992年9月)、554頁〕。 バイバルスは優れた精神力と体力の持ち主であり、17年にわたる在位中に38回のシリア遠征を実施し、うちモンゴル軍と9回、十字軍と21回にわたって交戦した〔佐藤『マムルーク 異教の世界からきたイスラムの支配者たち』、161頁〕。38回の遠征において、その半分はバイバルス自身が陣頭で指揮を執っていた〔牟田口『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』、212頁〕。華々しい戦績のためにバイバルスは英雄としてアラブ世界に名前を遺し〔、ハールーン・アッ=ラシードやサラディンと並ぶ英雄として知られている〔〔ヒッティ『アラブの歴史』下、642頁〕。バイバルスの英雄譚は説話文学に昇華され〔長谷部「バイバルス」『岩波イスラーム辞典』、740-741頁〕、マムルーク朝後期からオスマン帝国期にかけての時期に現存する物語の形式が成立する〔。バイバルスの活躍を鮮やかに描いた物語は、語り部(カーッス)を通して民衆を魅了した〔。 == 名前の語源 == 「バイバルス」はテュルクの言葉で「虎のベイ」を意味する〔ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、343頁〕。バイバルスの名前の「アル=ブンドクダーリー」は最初の主人であるアイダキーン・アル=ブンドクダーリーから与えられた名前であり〔ヒッティ『アラブの歴史』下、640頁〕〔、「弓兵」を意味している〔〔前嶋『イスラムの時代 マホメットから世界帝国へ』、342頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「バイバルス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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