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バイロン・ブラック : ミニ英和和英辞書
バイロン・ブラック
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


バイロン・ブラック : ウィキペディア日本語版
バイロン・ブラック

バイロン・ブラックByron Black, 1969年10月6日 - )は、ジンバブエハラレ出身の男子プロテニス選手。弟のウェイン・ブラックと末の妹カーラ・ブラックもプロテニス選手で、バイロンは3人兄弟の長男である。フォアハンド・ストローク、バックハンド・ストロークとも両手打ちの選手。自己最高ランキングはシングルス22位、ダブルス1位。ATPツアーでシングルス2勝、ダブルス22勝を挙げた。フルネームは ''Byron Hamish Black'' (バイロン・ハーミッシュ・ブラック)という。身長175cm、体重70kg。
==概要==
ブラックの家族は、父親が1953年1956年ウィンブルドン男子シングルス3回戦に進出した名選手で、自宅のアボカド農園の裏庭に4面の芝生コートを建設した。3人の兄弟はその中でテニスを習得し、長男のバイロンも父親の手ほどきを受けた。バイロンは1987年から男子テニス国別対抗戦・デビスカップジンバブエ代表選手に選ばれたが、南カリフォルニア大学で学生テニス選手として活動した後、1991年からプロ選手に転向した。学生時代の1990年に「アーサー・アッシュスポーツマンシップ賞」を受賞したことがある。
1993年、バイロン・ブラックはツアーでダブルス年間6勝を挙げ、1994年にはダブルスで10度の決勝戦に進出した。1993年の後半から、ブラックはジョナサン・スタークアメリカ)とのペアで成績を伸ばし、1994年全豪オープン全仏オープン4大大会の男子ダブルス決勝にも進出した。全豪オープンでブラックとスタークはオランダペアのヤッコ・エルティンポール・ハーフース組に敗れて準優勝になったが、全仏オープンでスウェーデンペアのヨナス・ビョークマンヤン・アペル組を 6-4, 7-6 で破って初優勝を飾り、ブラックはジンバブエのテニス選手として最初の4大大会タイトルを獲得した。
1996年に入ると、ブラックはダブルスでカナダグラント・コネルとペアを組むことが多くなった。ブラックとコネルのペアは、1996年ウィンブルドン男子ダブルスで決勝に進出したが、オーストラリアマーク・ウッドフォードトッド・ウッドブリッジ組に 6-4, 1-6, 3-6, 2-6 に敗れて準優勝になった。ウィンブルドンの後、ブラックは弟のウェインとともにオリンピックのジンバブエ代表選手としてアトランタ五輪に出場し、バイロンとウェインのペアで男子ダブルスにも出場したが、単複とも2回戦敗退に終わっている。
バイロン・ブラックの4大大会シングルス自己最高成績は、1995年全米オープン2000年ウィンブルドンベスト8進出であった。1995年全米オープンでは、ブラックは4回戦でドイツミヒャエル・シュティヒを 6-4, 6-4, 3-6, 2-6, 6-3 のフルセットで破ったが、準々決勝で第2シードのピート・サンプラスに 6-7, 4-6, 0-6 のストレートで完敗した。2000年ウィンブルドンの準々決勝では、ベラルーシウラジミール・ボルチコフに 6-7, 6-7, 4-6 で敗れている。シングルスではウィンブルドン・ダブルス準優勝があった1996年に、4月の韓国オープンで初優勝を果たし、1999年4月にチェンナイ・オープンインド)で2勝目を挙げたが、キャリアを通じて8度の準優勝があった。1998年の「ジャパン・オープン」決勝でアンドレイ・パベルルーマニア)に 3-6, 4-6 で敗れた準優勝もある。
2000年ウィンブルドンでベスト8に進出した後、3人兄弟にテニスを教えた父親のドン・ブラックが同年10月19日に死去した。バイロンは父親の死後、2001年全豪オープン男子ダブルスで7年ぶり2度目の決勝に進出した。パートナーはドイツデビッド・プリノジルと組んだが、決勝戦でトッド・ウッドブリッジオーストラリア)&ヨナス・ビョークマンスウェーデン)に 1-6, 7-5, 4-6, 4-6 で敗れ、全豪男子ダブルスは2度の準優勝で終わった。バイロンは2001年に1月のチェンナイ・オープンインド)と9月の中国上海大会でダブルス年間2勝を挙げたが、日本トーマス嶋田とペアを組んだ上海大会が彼の最後の優勝になった。バイロン・ブラックは2002年9月、故郷のジンバブエハラレ大会のシングルス2回戦でグザビエ・マリスベルギー)に敗れた試合を最後に33歳で現役を引退した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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