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バウンドブルックの戦い()は、アメリカ独立戦争中の1777年4月13日に、ニュージャージーのバウンドブルック前進基地にいた大陸軍に対してイギリス軍とドイツ人傭兵が急襲をかけたものである。イギリス軍は守備隊全員を捕獲することを目指していたがそれは適わなかった。しかし捕虜を多く捕まえることができ、大陸軍の指揮官ベンジャミン・リンカーン少将は大慌てで立ち去ったために文書や私物を置き去りにした。 4月12日夜、イギリス軍正規兵とドイツ人傭兵4,000名がチャールズ・コーンウォリス中将の指揮で、イギリス軍の強固な砦があったニューブランズウィックを進発した。戦闘が始まるまえに分遣隊1部隊以外の部隊がすべて前進基地を取り囲む所定の配置に就き、戦闘は翌朝夜明け頃にはじまった。戦闘の間に500名の守備隊は遮断されていなかった経路から逃げ出した。その日の午後に大陸軍の援軍が到着したが、イギリス軍は前進基地を略奪し、ニューブランズウィックへの帰途についた後だった。 == 背景 == 1776年12月のトレントンの戦いと明けて1777年1月のプリンストンの戦いの後、ジョージ・ワシントン将軍の大陸軍はモリスタウンで冬季宿営に入り、一方ウィリアム・ハウ中将のイギリス軍とドイツ人部隊はニューヨーク市とニュージャージーの北部で冬季宿営に入った〔McGuire, pp. 6–8〕。冬の間、ゲリラ戦のようなものが続き、パトリオット民兵隊が時には大陸軍の支援を得てイギリス軍やドイツ人傭兵の守る前進基地を襲い、食料やまぐさの調達に出たイギリス部隊を急襲した〔McGuire, p. 17〕。これらの作戦のために使われた前進基地の一つが、イギリス軍のニュージャージーにおける主要宿営地であるニューブランズウィックからはラリタン川の上流にあるバウンドブルックの基地だった〔McGuire, pp. 8, 20〕。この基地は、イギリス軍がラリタン川を渉ってモリスタウンの大陸軍主要宿営地を攻撃しようとした場合に通る可能性の高い3つの橋を警戒する任務が課されていた〔Davis, p. 6〕。 1777年2月、バウンドブルック前進基地にはベンジャミン・リンカーン少将の下に1,000名の部隊がいたが、徴兵期限が切れる兵士がいたために、3月半ばには500名にまで減っていた〔Mattern, p. 37〕。残っていた兵士はペンシルベニア第8連隊、大陸軍第4砲兵隊の1個中隊、および現在はペンシルベニア州北東部のワイオミング・バレーから来た独立系2個中隊で構成されていた。ワイオミング・バレーは当時コネチカットがウェストモアランド郡として領有主張していた地域だった〔''The Pennsylvania Magazine of History and Biography'', Volume 4, p. 458〕〔Boucher, p. 138〕〔Connecticut Historical Society, p. 263〕。リンカーンはワシントン将軍に、その基地に多くの部隊を配置できないために「攻撃された場合に援軍を期待できないこと」や、急な出立が必要になった場合に備えて荷車を準備していることを伝えて、その突出した基地の位置づけに関する懸念を表明していた〔。ニュージャージーのイギリス軍を指揮していたチャールズ・コーンウォリス中将は打ち続く「ゲリラ戦」にうんざりしており、バウンドブルックの前進基地に対する報復攻撃を計画した〔。ドイツ人猟兵の士官ヨハン・エヴァルト大尉の証言では、コーンウォリスが2月に攻撃作戦を立てるように求めてきたが、その作戦はラリタン川を渉ることが必要だったために春を待たねば実行できなかった〔Ewald, p. 55〕。4月12日夜、その作戦が実行に移された〔McGuire, p. 21〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「バウンドブルックの戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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