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国民党(こくみんとう、、略称:PP)は、スペインの中道右派の政党。中道左派のスペイン社会労働党と二大政党を形成する。日本の外務省では民衆党との訳語を当てている〔スペイン 、外務省〕。 == 歴史 == 1976年にマヌエル・フラガ・イリバルネら7人のフランコ体制の政治家を中心に結成された国民同盟(Alianza Popular、AP)を前身とする。1975年にフランコ総統が死去し、フアン・カルロス1世が即位してスペインに君主制が復活した。国王は前国民運動事務局長アドルフォ・スアレスを首相に任命し、国王と首相の協力のもとに民主化が進んだ。国民同盟は、フランコ政権内にいたもののスアレス政府からはずれた保守政治家を集め、フラガを党首として結成されたものである。 フラガもスペインの体制内改革を目指していたが、スアレスに改革の主導権を奪われ、国民同盟は保守層の支持を求めて極端に右傾化した。1977年6月15日に行われた第一回総選挙では、スアレスが率いる民主中道連合(Unión de Centro Democrático、UCD)が第一党、社会労働党が第二党となり、国民同盟は惨敗した。1979年の総選挙でも同様であった。 しかし、1981年にスアレスが首相を辞任すると寄り合い所帯であったUCDは内部分裂を起こし、1982年の総選挙でフェリーペ・ゴンサーレスの社会労働党政権が誕生した。この選挙で国民同盟は自壊したUCDに代わって保守票を集め、第二党に躍進した。 支持層を広げた国民同盟は中道右派に路線を変更し、1989年に国民党に改名して、フラガに代わってホセ・マリア・アスナールを党首に選んだ。1993年の総選挙で社会労働党に迫り、1996年の総選挙に勝利して、ゴンサーレス政権に代わってアスナール政権が誕生した。政権獲得後は高い経済成長率を達成し、2000年の総選挙でも再選された。 アスナール政権は、国内ではテロ活動を行うバスク祖国と自由(ETA)に対して強硬な態度を取り、また2003年に始まったイラク戦争ではいち早くブッシュ米政権に同調して対イラク武力行使に賛成し、有志連合の一員としてイラクにスペイン軍を派遣するなど、外交的には親米姿勢を鮮明にした。 2004年3月14日の総選挙では政権続投が確実視されていたが、投票3日前にマドリード列車爆破テロ事件が発生した。イラク派兵に反対するイスラーム過激派による犯行であったにもかかわらず、ETAによる犯行だとの誤った発表をしたこと、またイラク派兵に反対する市民のデモをテロと関連づけて批判するなど有権者の不信を買い、イラク撤兵を公約に掲げた社会労働党に政権を奪還された。 2008年10月22日、それまでナバーラ州内で協力関係にあったナバーラ住民連合(UPN)との関係が崩壊、2008年11月7日にナバーラ支部とも言うべきナバーラ国民党(Partido Popular de Navarra)が再結成された。 2011年総選挙では欧州危機を背景に過半数を制し、7年ぶりに政権奪回を果たした。 2013年1月、党首マリアーノ・ラホイ・ブレイを含む国民党幹部の汚職疑惑が報じられた。企業献金のうち、建設業界から不正な支払いがラホイ首相など国民党幹部に支払われていたというもので、ラホイには11年にわたって年間2万5200ユーロ(3万4200ドル)が支払われていたとされる。ラホイは不正を否定しているが、野党は政治家の信頼回復のために首相に辞任を要求している。国民の間では抗議デモが起きている。 2014年12月18日、マドリード市内の国民党本部ビルにガスボンベを積んだ車が突入したが、爆発には至らず死傷者も生じなかった。犯人は事業に失敗した市民と報じられている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「国民党 (スペイン)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 People's Party (Spain) 」があります。 スポンサード リンク
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