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バッハ家またはバッハ一族(独語ではFamilie Bach 、英語ではBach family )は、16世紀後半から18世紀までのドイツに続いた、重要な音楽家の家系である。 == 概要 == 16世紀には4つの分家があり、そのうち、1561年にヴェヒマルのハンス・バッハは、中でも最も栄えたエアフルト系統の祖ファイト・バッハの、おそらく父親として、その名が伝えられている。(ヴェヒマルは、アルンシュタットとゴータの中間に位置するテューリンゲン州の小都市である。)大バッハ本人によって作成され、次男カール・フィリップ・エマヌエル・バッハによって補筆された『音楽家バッハ一族の起源』によると、ファイト・バッハは、パン焼き職人で粉挽きであり、一族の祖として、「水車がカタカタと音を立てる中、愛らしいシターンの音色を奏でていたに違いない」。 しかし、一族で最初の職業音楽家は、ファイトの息子ハンス・バッハことヨハネス・バッハである。ハンスは大家族で、そのうち次男のクリストフ・バッハが、大バッハの祖父となった。ちなみにバッハの父親はアンブロジウスという。クリストフの弟ハインリヒ・バッハ(「アルンシュタットのハインリヒ」)には、二人の優れた息子がおり、ヨハン・ミヒャエル・バッハとヨハン・クリストフ・バッハは大バッハの先駆者として重要である。ヨハン・クリストフのモテット《イエスよ、われは汝を離れじ''Ich lasse dich nicht'' 》は、かつては大バッハのカンタータと看做され、BWV 159 という整理番号を与えられていた(現在は偽作として、BWV 159a に修正されている)。 ファイト・バッハの末裔のうち、ヨハン・ルートヴィヒ・バッハは大バッハにより、ほかのどの先祖よりも評価され、大バッハはヨハン・ルートヴィヒの数多くの教会カンタータを写譜して蔵書し、時おりそれに筆を加え、新作部分を付け足すこともあった。 バッハ一族は、大バッハの息子たちがより新しい世界に向かって勇躍するまで、テューリンゲンを離れたことがなかった。三十年戦争の時代に農民が惨状にさいなまれていた間、バッハ家は音楽家として地位を守り、音楽家を輩出したが、一族の名声は、ヨーロッパの最も偉大な音楽家の中では地域限定のものだった。作曲家として名を残さなかった者でも、市の演奏家や教会楽長、オルガニストのいずれかとして公式な記録に名を残している。エアフルトでは「バッハ」といえば音楽家を意味したほどで、一族がこの街から消えた後の1793年になっても、そのイメージが通用するほどだった。 大バッハの子供たちのうち、先妻で従妹のマリア・バルバラとの間にもうけた子供は7人いたが、生きながらえた子供は3人で、そのうち長男ヴィルヘルム・フリーデマンと次男カール・フィリップが音楽家となった。ヨハン・クリストフ・フリードリヒと末子ヨハン・クリスチャンの母親は、若い後妻のアンナ・マクダレーナ・バッハである。彼女自身はザクセン=ヴァイセンフェルス公の名のある宮廷トランペット奏者の娘であり、自らも優れたソプラノ歌手であった。 大バッハの直系の末裔は、もはや存在しておらず、傍系の末裔が存在するのみである。父親や兄とは対照的に、世俗的成功を手に入れた次男には、二人の息子がいたものの、ともに家業を継がなかった。次兄と弟の華麗な活躍に挟まれ、目立たないヨハン・クリストフ・フリードリヒだが、ビュッケブルクの宮廷楽長として堅実に活動を続けた。その子(すなわち大バッハの孫)ヴィルヘルム・フリードリヒ・エルンストがバッハ直系の最後の音楽家であり、その死によって事実上、音楽家バッハ家は断絶した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「バッハ家」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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