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バティストゥータ : ミニ英和和英辞書
バティストゥータ[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

バティストゥータ ( リダイレクト:ガブリエル・バティストゥータ ) : ウィキペディア日本語版
ガブリエル・バティストゥータ[ちょうおん]

ガブリエル・オマール・バティストゥータ (Gabriel Omar Batistuta, 1969年2月1日 - ) は、アルゼンチンサンタフェ出身の、プロサッカー選手。ポジションはフォワード1990年代を代表するフォワードの一人で、長くイタリア・セリエAで活躍し、セリエAの外国人最多通算得点記録を保持している。またアルゼンチン代表にも選抜され、代表の歴代得点記録も保持している。2005年に引退した。ニックネームは獅子王、バティ、バティゴル(バティゴール)。家族は妻と4男。サッカー界から引退後は、アドルフォ・カンビアッソのもとでポロを学んでおり、プロ選手として試合にも出場している。
== 略歴 ==
; 1969年
: 2月1日、アルゼンチンのサンタフェに生まれる。
; 1978年
: このころ(9歳)はサッカーよりバスケットボールに興味があったが、地元開催のワールドカップアルゼンチン大会で、当時のアルゼンチン代表のエース・マリオ・ケンペスのプレイを見たことでサッカーへの興味を膨らませる。
; 1986年
: 17歳にしてようやくバスケットボールからサッカー選手へと本格的に転向、地元のクラブ レコンキスタ・サンタフェと契約。
; 1987年
: ニューウェルズ・オールドボーイズへ移籍。
; 1988年
: 1987-1988シーズン、ニューウェルズ・オールドボーイズでリベルタドーレス杯準優勝。
; 1989年
: アルゼンチンの名門CAリーベル・プレートに移籍。しかしこの頃のバティストゥータは特別優れた選手ではなく才能は伸び悩んでいた。
; 1990年
: 1989-1990シーズン、リーベルプレートでアルゼンチン選手権優勝。シーズン終了後、同じブエノスアイレスに本拠を持つ強豪でありリバープレート最大のライバル、ボカ・ジュニアーズに移籍。ストライカーとして頭角をあらわす。
; 1991年
: 1990-1991シーズン、ボカ・ジュニアーズで19試合で11得点を叩き出し、アルゼンチン国内で一躍スターになる。
: 6月27日、ブラジル・クリチバで行われた対ブラジル戦でアルゼンチン代表デビューを飾る。コパ・アメリカチリ大会では6ゴールを挙げ、アルゼンチン代表を優勝へ導く。また、個人タイトルとして得点王も獲得。一躍世界的なプレイヤーとしてブレイクを果たす。
: 夏、セリエA・フィオレンティーナへ移籍。シーズン開幕当初、フィオレンティーナではサブプレイヤーとしての扱いだったが、ラザロニ監督の辞任に伴い就任したラディーチェ監督に見出され、レギュラーの地位を手に入れる。
; 1992年
: 1991-1992シーズン、セリエAでの1シーズン目を27試合出場13ゴールという好成績で終了。
; 1993年
: 1992-1993シーズン、フィオレンティーナは低迷、セリエB降格となる。それに伴いバティストゥータも移籍が取りざたされたが、チームに残留。コパ・アメリカ エクアドル大会では決勝戦での2ゴールなどでアルゼンチンの大会2連覇に貢献。
; 1994年
: 1993-1994シーズン、フィオレンティーナの1シーズンでのセリエA復帰に貢献。
: W杯アメリカ大会、ギリシャ戦でハットトリックなどの活躍で大会4ゴール(チーム内得点王)。チームは強豪アルゼンチンとしては不本意なベスト16の成績。
: 11月27日、対サンプドリア戦。セリエAに復帰したフィオレンティーナで1994-1995シーズン開幕11試合連続ゴールのセリエA新記録を達成(それまでの記録はエンツォ・パスクッティの開幕10試合連続ゴール)。
; 1995年 :
: 1994-1995シーズン、マヌエル・ルイ・コスタとのコンビが冴え渡り、26得点を挙げセリエA得点王となる(アルゼンチン人としてはディエゴ・マラドーナ以来2人目)。
: コパ・アメリカ ウルグアイ大会。チームは優勝を逃すが、バティストゥータ自身は得点王となる。
; 1996年
: 1995-1996シーズン、バティストゥータとフィオレンティーナは好調を維持。リーグを4位で終える。また、コッパ・イタリア優勝を達成する。
; 1997年
: W杯フランス大会の南米予選で当初バティストゥータはダニエル・パサレラ監督に出場機会をあまり与えられていなかったが、最終的には実力を認められレギュラーとして代表に復帰する。
; 1998年
: ワールドカップフランス大会。初戦はW杯初出場である日本戦。ここで1点を決め、勝利に貢献した。また、ジャマイカ戦ではW杯記録となる(1994年大会と続いての)2大会連続のハットトリックを決める。大会を通じて5ゴール(チーム内得点王)、チームはベスト8の成績。
: 1998-1999シーズン前半戦、17試合で17ゴールの大活躍。
; 1999年
: 1998-1999シーズン後半、チームの好調とともに得点王レースの首位を走っていたが、リーグ終盤に左足の怪我を負ってしまい、最終節に得点を挙げたウディネーゼマルシオ・アモローゾに追い抜かれ、2度目の得点王を逃す。
; 2000年
: 5月、スクデット獲得への思いと、破格の移籍金(当時としてはサッカー史上2番目の3,490万ユーロ≒約40.4億円)で同じセリエAのASローマへ移籍。
; 2001年
: 2000-2001シーズン、移籍1年目で20ゴールの活躍をし、ローマの1983年以来18年ぶりのセリエA優勝に貢献。自身としては悲願の初リーグ優勝だった。
: W杯韓国・日本大会 南米予選では、マルセロ・ビエルサ監督がバティストゥータとエルナン・クレスポを決して同時起用することがなく、2人のレギュラー争いが話題となる。
; 2002年
: ワールドカップ日韓大会。アルゼンチン代表のエースとして参加するが、1得点しか挙げられず、チームはグループリーグ敗退。バティストゥータはアルゼンチン代表からの引退を宣言。
; 2003年
: 1月、セリエA・インテルへ移籍。これは、それまでインテルのエースストライカーであり、バティストゥータにとっては因縁の相手でもあるエルナン・クレスポの怪我に伴うものである。
; 2003年
: 2002-2003シーズン終了後、12年間すごしたイタリアを去り、カタールリーグアル・アラビへ移籍。
; 2005年
: 現役引退を表明。引退後、オーストラリアパースに移住。アルゼンチンにて建設会社を運営しているとされている。
; 2011年
: 母国アルゼンチンでポロ選手として活躍中。現役時代の足首の酷使から歩行困難となり、30分程度立っているのが限界となったと報道されたが〔バティストゥータ、足首の酷使により30分の歩行も困難に ライブドアニュース 2011年8月11日。〕、本人は否定している〔バティストゥータ氏が歩行困難説を否定「サッカーはできないけど走れる」 ライブドアニュース 2011年8月12日〕。
; 2014年
: 上記の歩行困難についてインタビューに答え、一時は足を切断して欲しいと願うほどであったことを告白〔バティストゥータ氏が引退後の苦悩告白「脚を切断してくれと言った」 ライブドアニュース 2014年8月29日〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ガブリエル・バティストゥータ」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Gabriel Batistuta 」があります。




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