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白ナイル川(しろナイルがわ、英語:White Nile, アラビア語:النيل الأبيض, an-Nīl al-Ābyaḍ)は、アフリカ北東部を流れる河川であり、青ナイル川と共にナイル川の支川を形成している。ナイル川全体の水量の約20%を占める〔加藤「白ナイル川」『世界地名大事典』3、515頁〕。 青ナイルよりも白く濁った水の名前から、この支流は「白ナイル」と呼ばれるようになった〔。 狭義の白ナイルは、南西からのと南からのバハル・アル=ジャバル川( - ノ湖間)とが南スーダンで合流して形成されるノ湖から青ナイルと合流するハルツームまでである〔。広い意味では源流部のヴィクトリア湖からウガンダ国内を北上し、キオガ湖とアルバート湖を経て、バハル・アル=ジャバル川を通過する全ての水域を含み、長さは約3,700kmになる〔。 == 歴史 == 1820年から1822年にかけてエジプトのムハンマド・アリーはナイル上流に水源の探検隊を派遣したが、白ナイルの水源から1,000km南に位置するジュバ付近のゴンドコロから先に進むことはできなかった〔ユゴン『アフリカ大陸探検史』、50-51頁〕。1876年までにバハル・アル=ジャバルはイギリス人の指揮するエジプト軍に支配され、エジプト領スーダンに組み込まれた。 白ナイルの水源の発見は青ナイルの水源よりも遅く、19世紀後半にリチャード・バートン、ジョン・スピーク、らヨーロッパの探険家たちが先を争って水源の探索を行った〔。イギリス外務省と王立地理学協会の指示を受けたスピークとバートンはナイルの水源を発見するため、1857年にタンザニアのバガモヨを発って内陸部に向かう。スピークとバートンは悪天候、人夫の不足に悩まされ、道中でマラリアに罹りながらも1858年2月にヨーロッパ人として初めてタンガニーカ湖に到達する〔ユゴン『アフリカ大陸探検史』、52-53頁〕。タンガニーカ湖はナイルの水源ではないと考えたスピークはバートンと別れて単独で探検を行い、現地の人間がニアンザ湖、ウケレウェ湖と呼ぶ湖を発見する。スピークはイギリスの女王ヴィクトリアに敬意を表して「ヴィクトリア湖」と命名し、この場所がナイルの水源だと考えた〔ユゴン『アフリカ大陸探検史』、56-57頁〕。一方バートンはキリマンジャロ湖をナイルの水源と考えており、帰国後にスピークとバートンの説を巡って論争が起こり、1860年にスピークは再び探検に向かった。1862年7月にヴィクトリア湖北岸に辿り着いたスピークは湖から流れ落ちる滝を発見し、当時の王立地理学協会会長の名を取って「リポンの滝」と命名した。 19世紀にヨーロッパ人により行われたナイル川の源流の探検は、「最暗黒のアフリカ」の「未開のジャングルへのヨーロパ人の到達」として盛んに宣伝された〔Henry Morton Stanley, ''In Darkest Africa'',1890.〕。これは後のヨーロッパ諸国によるアフリカの植民地化へ大きな影響を与えることとなった〔。リポンの滝の発見の後もヴィクトリア湖に注ぐ川の水源の探索が続けられ、20世紀初頭にルヴィロンザ川がナイルの水源だと確認された〔ユゴン『アフリカ大陸探検史』、60,69頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「白ナイル川」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 White Nile 」があります。 スポンサード リンク
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