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マムルーク朝(دولة المماليك Dawla al-Mamālīk)は、エジプトを中心に、シリア、ヒジャーズまでを支配したスンナ派のイスラム王朝(1250年 - 1517年)。首都はカイロ。そのスルターンが、マムルーク(奴隷身分の騎兵)を出自とする軍人と、その子孫から出たためマムルーク朝と呼ばれる。一貫した王朝ではあるが、いくつかの例外を除き王位の世襲は行われず、マムルーク軍人中の有力者がスルターンに就いた。 == 歴史 == === 建国 === 13世紀半ばにフランス国王ルイ9世率いる十字軍(第7回)がエジプトに侵攻してきた際、アイユーブ朝のスルタン、サーリフが急死した。サーリフ子飼いのマムルーク軍団バフリーヤは、サーリフの夫人であった奴隷身分出身の女性シャジャル・アッ=ドゥッルを指導者とし、1250年にマンスーラの戦いでルイ9世を捕虜として捕らえ十字軍を撃退すると、サーリフの遺児であるがシャジャル・アッ=ドゥッルの子ではないトゥーラーン・シャーをクーデターによって殺害し、シャジャル・アッ=ドゥッルを女性スルターンに立てて新政権を樹立した。女性スルターンにはマムルーク以外のムスリム(イスラム教徒)の抵抗が強かったため、同年にシャジャル・アッ=ドゥッルはバフリーヤの最有力軍人アイバクと再婚し、アイバクにスルターン位を譲った。以後、マムルーク出身者がエジプトのスルターンに立つようになるので、シャジャル・アッ=ドゥッルもしくはアイバクをマムルーク朝の初代スルターンに数える。 アイバクはかつてのバフリーヤの同僚マムルークを追放し、自身の所有する子飼いのマムルークを立てて権力を確立したが、バフリーヤの支持を受けて権力を保持しつづけていたシャジャル・アッ=ドゥッルとも対立し、暗殺された。シャジャル・アッ=ドゥッルもすぐに殺害され、やがてアイバクのマムルークの間からクトゥズが台頭してスルターンとなる。 1260年、モンゴルのフレグの軍がシリアに迫ると()、クトゥズはバフリーヤの指導者バイバルスと和解し、アイン・ジャールートの戦いでフレグの将軍キト・ブカ率いるモンゴル軍を破った。この戦いの帰路でクトゥズと再び対立したバイバルスはクトゥズを陣中で殺害し、自らスルターンとなった。 マムルーク朝の事実上の建設者となったバイバルスは、フレグの開いたイルハン朝や、シリアに残存する十字軍国家の残滓と戦い、死去する1277年までにマムルーク朝の支配領域をエジプトからシリアまで広げた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マムルーク朝」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Mamluk Sultanate (Cairo) 」があります。 スポンサード リンク
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