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バランスオブゲームは日本の競走馬(種牡馬)である。中央競馬において、GI未勝利ながら、GII競走を6勝(歴代最多記録)した。主戦騎手は田中勝春。 == 経歴 == 1999年のセレクトセールで、競馬ゲーム『ダービースタリオン』の開発者である薗部博之によって、競り合いの末870万円で落札された。競った相手とみられる人物は岡田繁幸で、薗部に売却交渉を持ちかけてきたという。 2001年8月12日、新潟競馬の新馬戦でデビュー。1番人気に応えて勝利する。続く新潟2歳ステークスをレコードタイムを記録して優勝。2戦目にして重賞初勝利となった〔なお、最終的に重賞を7勝する同馬であるが、田中勝春以外の騎手が騎乗して重賞を勝ったのはこの時だけである〕。レース後、骨膜炎を発症していたことから休養が与えられた。 休養後は12月のGI朝日杯フューチュリティステークスに出走し(結果は4着)、レース後再び休養を経て翌2002年3月、皐月賞トライアルの弥生賞に出走。同レースを逃げ切って優勝した〔騎乗した田中勝春曰く、レース序盤は力んで走っていたが、途中で内ラチに止まっているカラスを見て落ち着きを取り戻した。〕。その後、GIの皐月賞と東京優駿ではそれぞれ8着、7着に敗れた。東京優駿の後は夏期休養が与えられ、復帰戦となった菊花賞トライアルのセントライト記念を優勝。続く菊花賞は5着に敗れ〔田中勝春は菊花賞について「ミスをしていなければ勝っていたレース」と回顧している。〕、この年の競走を終えた。 2003年の初戦はアメリカジョッキークラブカップの予定であったがレースの数日前に顔面を負傷したため陣営は出走を回避し、中山記念に出走。このレースで2着になったのを皮切りに日経賞2着、金鯱賞4着と堅実な成績を収めた。宝塚記念で11着に敗れて前半シーズンを終え、後半シーズンは毎日王冠から始動しレコードタイムで優勝した。この頃から陣営はバランスオブゲームに1800mを超えるレースでは詰めが甘くなるという傾向を感じ取っており、次のレースには天皇賞(秋)ではなくマイルチャンピオンシップが選ばれた(結果は4着)。 2004年の初戦には大阪杯が選ばれ、4着になった。レース振りから前半シーズンの目標には1600mの安田記念が選ばれ、3着に好走。8月には札幌記念に出走し2着になった。その後天皇賞(秋)、マイルチャンピオンシップでは9着、8着に敗れ、この年は勝利を挙げることができないまま競走を終えた〔なお、この年に重賞を勝っていたらドウカンヤシマの6年連続重賞勝利に並ぶ快挙を達成していたことになる。〕。 2005年は初戦の中山記念で久々の勝利を飾る。この年は他のレースでも好走はしたものの勝利を挙げることができなかった。2006年はフェブラリーステークスを目標に初めてのダート戦となる根岸ステークスに出走したが11着に敗れ、計画は撤回された。次のレースには中山記念が選ばれ、逃げ切って優勝。グレード制導入以後初の中山記念連覇を達成した。続く安田記念では17着に敗れたが、宝塚記念では得意の渋った馬場で逃げて3着に粘った。夏期休養を挟み、秋初戦はオールカマーに出走。好位から抜け出して、日本記録となるGII6勝目を挙げた。次走には15回目のGI挑戦となる天皇賞(秋)が選ばれたが、レース直前の調教後に左前浅屈腱不全断裂を発症〔ケガが発覚した直後、馬主の薗部は母校早稲田大学での講演会において、自分の生活リズムが夜型の人間だということを調教師も知っているので、普段は夕方頃に連絡が入るが朝方に電話がかかってくるのは大抵悪い知らせであること、そしてその日も朝に電話があったということなどを語った。〕。競走能力を喪失し、競走馬を引退した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「バランスオブゲーム」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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