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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
バリー・ウインダム(Barry Clinton Windham、1960年7月4日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。テキサス州スウィートウォーター出身。父親はブラックジャック・マリガン、弟はケンドール・ウインダム、息子はジェシー・ウィンダム。ディック・マードックは義理の叔父、マイク・ロトンドは義兄弟にあたる。 父親譲りの長身の持ち主だが、大型ラフファイターだったマリガンとは対照的に、インサイドワークを駆使する技巧派として活躍した。1980年代から1990年代を全盛期に、NWA、WCW、WWFなど各メジャー団体で実績を残している。 == 来歴 == 父ブラックジャック・マリガンのトレーニングのもと、1980年1月にエディ・グラハムが主宰するNWAフロリダ地区のCWFでデビュー。金髪と長身、そして甘いマスクを持ったベビーフェイスの新鋭として売り出され、同年には早くもバグジー・マグロー、ミスター・サイトー、スーパー・デストロイヤーらを破り、同地区認定のTV王座を通算3回獲得した。 以降もCWFを主戦場に、ダスティ・ローデスやマリガンとのタッグで活躍。シングルでは1981年1月12日にドリー・ファンク・ジュニアからフロリダ・ヘビー級王座を奪取し、1982年12月18日にはグレッグ・バレンタインを下し南部ヘビー級王座を獲得。1980年代前半はリッキー・スティムボート、ポール・オーンドーフ、ケリー・フォン・エリック、ブッチ・リードらと共に、次期NWA世界ヘビー級王者候補の一人として期待を集めた。 1983年11月、全日本プロレスの世界最強タッグ決定リーグ戦にロン・フラーとの2メートル・コンビで初来日。キャリア不足もあって勝ち星には恵まれなかったものの、リッキー・スティムボート以来の初来日選手に対するコールが起こった。なお、来日第1戦となる開幕戦(大阪府立体育館)で対戦し、リーグ戦の優勝チームとなったスタン・ハンセンとブルーザー・ブロディの両者は、ジョージアやテキサスなどアメリカ南部におけるブラックジャック・マリガンのライバルでもあった。 1984年10月、フロリダでのタッグパートナーだったマイク・ロトンドと共にWWFと契約。ロトンドとのタッグチームはUSエクスプレス(''The U.S. Express'')と名付けられ、1985年1月21日にはノース・サウス・コネクション(ディック・マードック&アドリアン・アドニス)を破り、WWF世界タッグ王座を獲得した。同年3月31日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで行われたレッスルマニア第1回大会にてアイアン・シーク&ニコライ・ボルコフに敗れ王座から陥落するも、6月17日に奪還に成功〔。しかし、8月24日にドリーム・チーム(グレッグ・バレンタイン&ブルータス・ビーフケーキ)にタイトルを奪われ、同年10月にWWFを離脱した。 1986年1月、ロトンドとのコンビで全日本プロレスに再来日。その後は古巣のフロリダを経て、同年末よりジム・クロケット・ジュニア主宰のNWAミッドアトランティック地区(ジム・クロケット・プロモーションズ)に定着、リック・フレアーのNWA世界ヘビー級王座に再三挑戦した〔フレアーはウインダムを手の合ったライバルの一人として認めており、その試合巧者ぶりを「自分と技術で渡り合える数少ないレスラー」「60分フルタイム闘っても苦にならない相手」などと高く評価している。また、酒と女にも強く、何度も負かされたとも語っている(DVD『リック・フレアー アルティメット・コレクション』DISC-1 / 2004年、ジェネオン・エンタテインメント)。〕。1988年3月にはフォー・ホースメンを脱退したレックス・ルガーと組んでアーン・アンダーソン&タリー・ブランチャードからNWA世界タッグ王座を奪取するが、数週間後にルガーを裏切ってヒールに転向、ルガーと入れ替わる形でフォー・ホースメンの新メンバーとなった〔。 1988年11月、テッド・ターナーがクロケット・プロを買収してWCWが発足すると、一時WCWを離脱し1989年にザ・ウィドウメイカー(''The Widowmaker'')を名乗ってWWFに短期間登場〔。1990年には全日本プロレスへの3度目の来日を果たし、3月6日に日本武道館にてジャンボ鶴田の三冠ヘビー級王座に挑戦、その後WCWに復帰する。復帰後は再びホースメンに加わるも、1991年からはベビーフェイスに戻り、ダスティン・ローデスとの南部人タッグを結成した〔。同年3月、当時WCWと提携していた新日本プロレスに初参戦し、1992年8月のGIクライマックスにも出場。1993年2月21日にはノースカロライナ州アッシュビルでグレート・ムタを破り、復活版のNWA世界ヘビー級王座を奪取している。 1994年のWCW退団後はしばらくマット界から離れていたが、1996年末より密猟者ギミックのベビーフェイス、ザ・ストーカー(''The Stalker'')としてWWFに登場。翌1997年からは父マリガンと同様の黒ずくめのカウボーイ・スタイルとなり、ジャスティン・ブラッドショーを相棒にニュー・ブラックジャックス(''The New Blackjacks'')を結成。かつて父がブラックジャック・ランザとのコンビで一世を風靡した名タッグチーム、ザ・ブラックジャックスをリメイクした。同年の暮れには全日本プロレスの世界最強タッグ決定リーグ戦に、ニュー・ブラックジャックスとして参加。1983年の初来日以来、14年ぶりの最強タッグ出場を果たしている。 1998年にブラッドショーとのコンビを解消してヒールに転向、ジム・コルネットがWWF内で結成した「NWA軍」に加入するがファンの反応は鈍く、同年よりWCWに復帰する。しばらくは前座のポジションに甘んじていたものの、1999年にカート・ヘニング、ボビー・ダンカン・ジュニア、実弟のケンドール・ウインダムらと共に、カウボーイ・ユニットのウエスト・テキサス・レッドネックス(''The West Texas Rednecks'')を結成〔カート・ヘニングの父ラリー・ヘニングとウインダムの父ブラックジャック・マリガンは1970年11月、国際プロレスにチームを組んで来日し、IWA世界タッグ王座を奪取している。また、ボビー・ダンカン・ジュニアの父ボビー・ダンカンとブラックジャック・マリガンは、ウインダムがデビューした1980年にNWAミッドアトランティック地区で抗争を繰り広げた仲だった。〕。同年2月21日にはヘニングと組みトーナメント決勝でクリス・ベノワ&ディーン・マレンコを、8月23日にはケンドールとの兄弟チームでハーレム・ヒート(スティービー・レイ&ブッカー・T)をそれぞれ破り、WCW世界タッグ王座を2回に渡って獲得した。 1999年にWCWを離れ、プエルトリコのWWCやテッド・デビアスがプロデュースしたWXOなどを転戦。2000年にはケンドールとのウインダム・ブラザーズで全日本の世界最強タッグ決定リーグ戦に来日、通算3回目の出場を果たした。2001年からはダスティ・ローデスが興したTCWに参加、以降はセミリタイア状態となり、各地のインディー団体へのスポット参戦を続けた。2004年5月にはIWAジャパンに来日。マイク・ロトンドの引退試合に三宅綾を加えたトリオで出場した。 2006年、プロデューサーとしてWWEと契約したが、2008年に解雇されている。2012年、リック・フレアー、アーン・アンダーソン、タリー・ブランチャードおよびマネージャーのJ・J・ディロンと共に、フォー・ホースメンとしてWWE殿堂に迎えられた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「バリー・ウインダム」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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