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バルス・ボラト・サイン・アラク晋王(1484年 - 1531年)は、オルドス・トゥメンの晋王(ジノン)。ダヤン・ハーンの三男で、アルタン・ハーンの父。バルス・ボロド(barsu bolud)、バルス・ボラド(barsu bolad)、バルスボラド(barsubolad)、バルスバラド(barsubalad)、バルスバラド・サイン・アラグ・ハーン(barsubalad sayin alaγ qaγan)とも表記され、『夷俗記』「世系表」では賽那剌と表記される。〔吉田 1998,p232〕 ==生涯== 1484年、ダヤン・ハーンの三男として生まれる〔岡田 2004,p239〕。 1508年、兄のウルス・ボラト晋王が右翼のイバライ(イブラヒム)太師、マンドゥライ・アハラフらに殺されたため、トゥメト・トゥメンのチェグト部のホーサイ・タブヌンの家に居たバルス・ボラト一家は、オルドス・トゥメンのコブート部のテムルら七人と共に右翼を脱出し、左翼にいる父ダヤン・ハーンのもとへ逃れた。ダヤン・ハーンはテムルら七人に太師や大ダルハンの称号を与え、右翼三トゥメンに向かって出陣し、ガハイ・エレスンの戦い、ダラン・テリグンの戦いで右翼三トゥメンを降し、ウルス・ボラトの仇を取った〔岡田 2004,p230-236〕。 1512年、29歳で晋王(ジノン)の位につき、オルドス・トゥメンを領す〔岡田 2004,p251〕。 1524年、ダヤン・ハーンが崩御すると、その長男のトロ・ボラト、次男のウルス・ボラトがすでに亡くなっていたため、三男であるバルス・ボラト・サイン・アラク晋王はトロ・ボラトの長男であるボディ・アラクがまだ若いからといって、自ら帝位についた。しかしまもなく、ボディ・アラクは左翼三トゥメンを率いて八白室(ナイマン・チャガン・ゲル:チンギス・カン廟)に跪拝して帝位につくべく、叔父であるバルス・ボラト・サイン・アラク晋王に激しく叱責し、譲位を迫った。激しく叱責されたバルス・ボラト・サイン・アラク晋王はボディ・アラクに帝位を譲り、ボディ・アラクは八白室に跪拝してハーンとなった〔岡田 2004,p242〕。 1531年、48歳で亡くなり、翌年(1532年)長男のグン・ビリクが後を継いで晋王となる〔岡田 2004,p251〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「バルス・ボラト・サイン・アラク晋王」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Bars Bolud Jinong 」があります。 スポンサード リンク
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