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バルトロメオ・クリストフォリ : ミニ英和和英辞書
バルトロメオ・クリストフォリ
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


バルトロメオ・クリストフォリ : ウィキペディア日本語版
バルトロメオ・クリストフォリ

バルトロメオ・クリストフォリ・ディ・フランチェスコ(Bartolomeo Cristofori di Francesco, 1655年5月4日パドヴァ - 1731年1月27日フィレンツェ)は、イタリアの楽器製作家であり、ピアノ技術者フィレンツェメディチ家に仕え、ピアノを発明した人物として知られる。
==生涯==
クリストフォリの生涯を伝える史料には、出生と死亡の記録、2通の遺言書、雇い主へ送った請求書、およびマッフェイ侯フランチェスコ・シピオーネ (:en:Francesco Scipione, marchese di Maffei) による一本の取材が伝わる。シピオーネの記録は、取材のノートと公刊された雑誌記事が存在している。
クリストフォリはヴェネツィア共和国パドヴァに生まれた。若い頃について伝わっていることはなにもない。著名なヴァイオリン製作家ニコロ・アマティの工房で見習いをしていたという話があり、これは1680年の国勢調査記録中に、クレモナのアマティの家に「クリストファロ・バルトロメイ」という人物が居住していたことが見えるのに基づいている。しかし、スチュワート・ポーレンズが指摘するように、このバルトロメイは13歳と記録されているのに対し、クリストフォリは洗礼記録によれば当時25歳であったはずであり、別人とするのが妥当である。ポーレンズは、クリストフォリ製作とされることのあるチェロとコントラバスの真贋についても疑義を呈している。
次にクリストフォリが記録に現れるのは、1688年、33歳の時のフェルディナンド・デ・メディチによる雇用であり、これはおそらくクリストフォリの生涯の中で最も大きな意味をもつ出来事であった。メディチ家最末期の トスカーナ大公コジモ3世の子であり相続者であったフェルディナンド大公子は音楽を愛し、強力なパトロンであった。
フェルディナンドがクリストフォリを雇った理由は伝わっていない。フェルディナンドは1688年にヴェネツィアを旅し、謝肉祭に参加しているところから、その帰途にパドヴァでクリストフォリに出会ったのかもしれない。フェルディナンドは当時、所有する多数の楽器を維持管理する技術者が没したため、新しい人材を探していた。しかしながら、フェルディナンドがクリストフォリを雇うに際しては、単に維持管理する技術者としてではなく、新しい楽器の開発者として考えていた可能性もあるようだ。後にクリストフォリが得た高名に鑑みるに、33歳のクリストフォリがすでにその発明の才を見せていたとしても驚くにはあたらない。
クリストフォリが開発者として雇われた状況証拠は次の通りである。スチュワート・ポーレンズによれば、当時のフィレンツェには、この地位を占めるだけの能力をもった人材が数多くいたにもかかわらず、フェルディナンドは彼らを雇わず、前任者よりも高給でクリストフォリを迎えた。更に、ポーレンズの指摘では、クリストフォリがメディチ家へ宛てた多数の請求書の中に、クリストフォリのピアノに関する記録が一切ないところから、クリストフォリは発明開発の成果をメディチ家へ手渡すことが求められていたのではないかと推測される。最後に、フェルディナンドは大変な機械好きで(さまざまな手の込んだ楽器だけでなく、40以上の時計を収集している)、クリストフォリの発明の要である、手の込んだアクション機構に関心をもったはずと考えられる。
シピオーネ・マッフェイの取材記録には、クリストフォリが雇われた当時のフェルディナンドとの会話を語っている部分がある。すなわち、「公には行きたくないと伝えた。彼は行きたくなるようにすると答えた」(ジュリアーナ・モンタナリの訳による〔“The prince was told that I did not wish to go; he replied that he would make me want to”.〕)とあり、ここからはフェルディナンドがクリストフォリを特別な人材であると見なし、雇用を受け入れさせようと説得しようとしていたことが伺える。
クリストフォリは結局雇用を受け入れ、給料は一月あたり12スクーディであった。1688年5月には早くもフィレンツェに移り(雇用の面接は三月か四月であった)、トスカーナ大公国の管轄で家具、設備の備わった家を与えられ、仕事を開始した。フェルディナンドのために、楽器の調律、調整、輸送にあたり、さまざまな発明に取り組み、また古いチェンバロの修復もおこなった(この点についてはグラント・オブライエンに詳しい)。
当時、トスカーナ大公は約100人に上る職人を雇い、ウッフィッツィ美術館のギャレリア・デイ・ラヴォリで働かせていた。クリストフォリの当初の仕事場もこの一角にあったと考えられ、クリストフォリはこのことに不満を抱いていた。マッフェイの取材ですなわち「あのような騒音に溢れた大きな部屋に入っていくのは辛かった」(モンタナリ訳〔It was hard for me to have to go into the big room with all that noise〕)と述べている。
フェルディナンドがクリストフォリの不満にどのように応えたかに対しては、研究者の間に見解の相違がある。スチュワート・ポーレンズは、この経緯について、上記引用の “che da principio durava fatica ad andare nello stanzone in questo strepito; che fu detto al Principe, che non volevo; rispos' egli il farò volere io.” という同じ文に対して「最初はこのまわりが聞えないほどの騒音に溢れた大きな部屋の中にいることは、彼にはとても疲れることであった……彼は公にこのような状態は嫌だと伝えた。公は対処します、そのように望んでいます、と答えた」〔“At the beginning it was very tiring for him to be in the large room with this deafening noise ... he told the prince that he did not want it so; the latter responded, he will do it, I wish it.”〕と解釈している。
このようにマッフェイの取材の全く同じ記述が、研究者によって大きく異なって解釈されている。いずれにせよ、そのうちにクリストフォリは専用の工房を手に入れ、通常は一人か二人のアシスタントとともにそこで働いた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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