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バルバラ・ツェリイスカ : ミニ英和和英辞書
バルバラ・ツェリイスカ
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


バルバラ・ツェリイスカ ( リダイレクト:バルバラ・ツェリスカ ) : ウィキペディア日本語版
バルバラ・ツェリスカ

バルバラ・ツェリスカクロアチア語およびスロヴェニア語:Barbara Celjska;ハンガリー語:Cillei Borbála;ドイツ語:Barbara von Cilli, 1390年/1395年 - 1451年7月11日)は、神聖ローマ皇帝およびハンガリーボヘミアの王ジギスムントの2番目の妃。スロヴェニアツェリェ伯ヘルマン2世の娘で、母はシャウンベルク女伯アンナ。「ドイツのメッサリーナ」の異名を持ち、ドラゴン騎士団の創設に深く関与した。
== 生涯 ==
バルバラと同族の従姉アナはともに、ツェリェ伯家の姻戚にあたる姉妹を先妻かつ共同君主としていた2人の君主の再婚相手となった。アナは女王ヤドヴィガを亡くしたポーランド王リトアニア大公ヴワディスワフ2世と1402年に、バルバラは女王マーリアと死別したハンガリー王ジギスムントと1408年に、それぞれ結婚したからである。アンジュー家の女王姉妹マーリアとヤドヴィガの母エリザベタと、バルバラおよびアナの父方の祖母カタリナは姉妹である。
バルバラとの結婚には、妻の死によって脆弱になったジギスムントのハンガリー王位の正統性を補強する目的があった。バルバラは父方の血統を通じてスロヴェニアの支配者ツェリェ伯のみならず、ボスニアコトロマニッチ家セルビアネマニッチ家、さらにはハンガリー王イシュトヴァーン5世の血を引いていたからである。ジギスムントは1410年にドイツ王位、1419年にボヘミア王位を獲得し、1433年には神聖ローマ皇帝として戴冠している。
バルバラはジギスムントの子供としては唯一人生存した女子相続人エリーザベトの母となり、娘をハプスブルク家オーストリア公アルブレヒト5世(ドイツ王、ボヘミア王、ハンガリー王位を継承した)に嫁がせ、存命中にアンナエリーザベトラディスラウス(オーストリア公、ボヘミア王、ハンガリー王位を継承した)の3人の孫の祖母となった。
ヘルマン2世は、反目しあうジギスムントヴワディスワフ2世の「舅」として、1410年のタンネンベルクの戦いでは重要な役割を演じた。ヘルマンはこの戦いにおいて、ドイツ騎士団と結んでヴワディスワフ2世を破滅に追い込もうとする義理の息子ジギスムントと敵対し、義理の甥ヴワディスワフを支援した。ウワディスワフとその同盟者であるスラヴ同盟は、ローマ教皇を含め22もの西欧諸国から送られてきた戦士たちを率いるドイツ騎士団を打ち負かしたのである。
バルバラは結婚後の生活の大半をハンガリーで過ごしたが、夫は数多くの国の統治者として他国に出向くことも多く、このためバルバラは夫が不在だった1412年、1414年、1416年、1418年にハンガリーの摂政を務めた。バルバラは知性と美貌を兼ね備えた皇后・王妃だったと言われ、母国語のスロヴェニア語はもちろん、ドイツ語ラテン語も自由に使いこなした。バルバラは無神論者であり、自分の侍女たちに神に祈ることを禁じていたとされる。後に教皇ピウス2世となる人文主義者エネア・シルヴィオ・ピッコローミニによれば、バルバラは夫と同様に愛人を囲い、愛人たちの「ハレム」を作っていた。こうした不倫に怒ったジギスムントは1419年、バルバラをオラデアに追放したが、1421年にはバルバラは許されて宮廷に戻っている。
バルバラは自分の兄フリデリクとその息子ウルリクと共謀し、夫の死後のボヘミア王位を娘婿のオーストリア公アルブレヒトではなく、ポーランド王ヴワディスワフ3世に差し出そうとした。この陰謀を知ったジギスムントは1437年12月5日にバルバラをブラティスラヴァに監禁したが、その4日後の12月9日に亡くなった。
夫の死後、バルバラは解放されたものの全財産を没収され、ハンガリーを出国することを余儀なくされた。彼女はポーランドに移り、サンドミェシュを領地として与えられた。1441年になると、バルバラはボヘミアムニェルニークに移った。彼女はこの地でボヘミア前王妃としての余生を送ったが、ここでも体制転覆の陰謀を図ったとして告発されている。バルバラは晩年を趣味の化学やオカルト諸学の研究に費やした。バルバラはペストに罹って亡くなった。




抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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