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バルバロス・ハイレッディン(خير الدين Khair ad Din、ヨーロッパなどではハイレッディン・バルバロッサ (Hayreddin Barbarossa), 1475年 – 1546年7月4日)は、オスマン帝国の提督。「バルバロス」(赤髯、またはバルバリアの王の意)と呼ばれ、バルバリア(北アフリカ)の海賊たち(バルバリア海賊)の中でもヨーロッパ人から特におそれられた大海賊。1538年のスペインとのプレヴェザ海戦の勝利を導いた。 バルバロス・オルチ(ウルージ、Aruj, 1474年 - 1518年)とは兄弟で、地中海域では海賊「バルバロス兄弟」として知れ渡っていた。ギリシャのミディルリ島(現在のレスボス島)出身である〔フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ『図説 ラルース世界史人物百科 2 ルネサンス-啓蒙時代「1942-1789」 コロンブスからワシントンまで』(樺山紘一 日本語版監修, 原書房, 2004年6月)、57頁〕。 ==青年期== エーゲ海のレスボス島の出身といわれる。父親の祖先はギリシア人、アルバニア人、トルコ人の諸説あり、スィパーヒーだった。母親はミティリーニ出身の正教徒聖職者の寡婦で、ヤークープ・アーガーと再婚した。夫妻は2人の娘と4人の息子をもうけた。 ヤークープは4人の息子に、イスハーク、ウルージ、フズール、イリヤスと名付けた〔“Barbarossa ”.Encyclopadia Britannica (11 ed.)〕。三男のフズールが、後のハイレッディンである〔鈴木董『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』(講談社現代新書, 講談社, 1992年4月)、162頁〕。兄弟4人全員船乗りとなり、ロードス騎士団を相手とする私掠船で活動した。長男イスハークはミティリーニで、次男と末のウルージとイリヤスはアナトリア、レバント、シリア、エジプトで活動した。フズールは主にテッサロニキを拠点にエーゲ海で活動した。その後イリヤスはロードス騎士団の攻撃で命を落とした〔。次男ウルージはオスマン帝国の皇子コルクトに18隻のガレー船を与えられ、ロードス騎士団を襲撃した。コルクトがマニサ知事となるとウルージは24隻のガレー船を与えられ、イズミルを拠点としてイタリア半島のアプリアに遠征した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「バルバロス・ハイレッディン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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