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バルフルール岬とラ・オーグの海戦 : ミニ英和和英辞書
バルフルール岬とラ・オーグの海戦[ばるふるーるみさきとらおーぐのかいせん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [さき, みさき]
 【名詞】 1. cape (on coast) 
海戦 : [かいせん]
 【名詞】 1. naval battle 
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 

バルフルール岬とラ・オーグの海戦 : ウィキペディア日本語版
バルフルール岬とラ・オーグの海戦[ばるふるーるみさきとらおーぐのかいせん]

バルフルール岬とラ・オーグの海戦(Battle of Barfleur and La Hogue)は大同盟戦争中の1692年5月29日 - 6月4日ユリウス暦5月19日 - 24日)に発生した一連の海戦のことである。まずバルフルール岬付近で、次にコタンタン半島シェルブールサン=ヴァースト=ラ=ウーグイングランド王国ネーデルラント連邦共和国(オランダ)連合艦隊とフランス王国艦隊との戦闘が起きた。
1692年5月、フランスはイングランド王位を廃されたジェームズ2世を支持しており、彼の復位のためにフランス・アイルランド連合軍を侵攻させようとトゥールヴィル伯アンヌ・イラリオン・ド・コタンタン提督の指揮する戦列艦44隻を集結させた。2年前のビーチー・ヘッドの海戦での勝利は上陸の現実性を感じさせるものであったので、バルフルール岬でトゥールヴィルは英蘭連合艦隊の82隻を相手に勇敢に戦った。
しかし、激しくはあったが決定的ではない衝突で双方の艦隊は大きな損傷を受け、トゥールヴィルは霧に隠れて数日間逃走を試みたが結果的にフランス艦隊は分散し、シェルブールで3隻、ラ・オーグで12隻を失ってイングランド侵攻計画は霧散した。
== 海戦前 ==
フランス王ルイ14世と海軍大臣ルイ・フェリポー・ド・ポンシャルトランfr)はジェームズ2世復位のためにイングランド上陸を計画する。最初の計画は1692年4月に英蘭艦隊が合同する前に軍を送ろうというものであった。歩兵はサン=ヴァースト=ラ=ウーグに結集し、騎兵と大砲はル・アーヴルで輸送船に搭載されるのを待っていた。後はトゥールヴィルが艦隊をブレストに結集させれば侵攻軍を出発させることができたのである。
しかしフランス艦隊はそろわなかった。ヴィクトル=マリー・デストレ提督のトゥーロン戦隊はジブラルタル海峡通過時に嵐に遭遇、2隻を失って引き返し、ヴィレット=ミュルゼイ侯フィリップ・ル・ヴァロワ提督(fr)のロシュフォール戦隊は遅れてやってきたのである。さらにトゥールヴィルのブレスト艦隊は人員不足に苦しんでおり、ユリウス暦4月29日に出航する際に20隻をシャトールノー侯フランソワ・ルイ・ルッスルfr)に残して来なくてはならなかった。彼の艦隊は逆風でさらに遅延し、ベルトーム水路を通過したのはユリウス暦5月2日になってからであった。
トゥールヴィルが英仏海峡に入ったとき、彼の手元には37隻の戦列艦と7隻の火船、加えて数隻のフリゲートがあった。加えてユリウス暦5月15日にはロシュフォール戦隊が合流し、戦列艦44隻、その他艦艇も加えて70隻から80隻ほどになる。
一方、英蘭連合はワイト島セント・ヘレンズ泊地に集結していた。ラルフ・デラヴァル提督はユリウス暦5月8日にワイト島に到着し、翌日には海峡の西側で船団護衛とガーンジー島への兵員輸送を行っていたリチャード・カーター提督が加わった。オランダは4月にフィリップス・ファン・アルモンデ提督の艦隊を派遣し、当時は南下を続けていた。
ジョン・アシュビー提督はユリウス暦4月27日にノール泊地を出航、エドワード・ラッセル提督の出発は29日まで遅れたが、ガル海峡の危険な航路を通って時間を稼いだ。ラッセルはダウンズでアルモンデの艦隊と、ダンジェネスで別のオランダ戦隊と合流した。セント・ヘレンズに到着したのは5月の第2週で、それから数日間に更なる増援も到着し、14日には戦列艦80隻以上の艦隊となっていた。このため英蘭艦隊が分散しているうちにフランス艦隊を集中するという戦略は交戦の前に失敗していた。
しかしルイ14世はトゥールヴィルにとにかく海戦することを命じ、作戦が中止になることはなかった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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